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『漁港口の映画館 シネマポスト』ではポーランド映画、ミハウ・クフィェチンスキ監督作品『フィリップ』を26日(金)まで上映しております。

作家のレオポルド・ティルマンドが1961年にポーランドで発刊した小説『フィリップ』を映画化したとされます。
映画化されるに通常、脚色要素や演出は形にしていく上で施されるものと考えると、ティルマンドによる原作は半自伝的とも謳われているので、事実と小説化との接合を様々工夫を凝らしていても不思議ではありません。
また、当時のポーランドがソビエト影響下にあれば内容を巡って結果発禁処分になってしまったというのは、厳しい時代背景をも考えます。
センセーショナリズムが主であっても、創作に自由裁量が限定されるのは、やるせないものがあります。

ティルマンドは作家として書くことへの苦はなかったと思われますが、世の中の苛立ちや憤怒を身体的に表す人が、古今東西一定数存在するとして、書くことで伝播させ浸透させていく…或いは自己の感情の整理のためにとにかく書くという理由も一定数以上存在します。
しかしながら、どうしても伝え方、ボキャブラリーの駆使や文法基礎や結局構成次第に集約される見方もあります。
文章人格とも言える顔が見えないビハインドが良くも悪くも想像というフィルターからの理解習熟度の差を生じさせます。
効果的な語彙を選択できる知識や読み手を意識できる客観性の有無だけで、文章は違ったものになるのです。
今、仮に文章を人に見てもらう前提で解析してますが、自分の日記であっても振り返る記憶としてのテキストの吐き出しが概ね年齢から回顧できることで多分に懐かしさが勝るに違いないにせよ、客観性があれば別の表現になっていたのかもしれないと思はなくもありません。ただ可愛げは期待できないような気がします。

意外と自己顕示欲なのか、贖罪意識なのか自分のことを告白することでの問題提起が様々な媒体で見かけるケースがあります。
方法は映像か文章かです。
そこで感じるのは、動機の構成に明らかに客観的視点が備わった故の身の置きどころを他者に委ねているように映るのです。一概にそうとも限りませんが、文章には先ほどお話しした想像をもたらす効果が否が応でも出てしまうとして、受け止める側の心の幅次第というのが既に、リスクの可能性も孕んでいることに気づきます。
則ち、他言せず黙っていれば自己で処理するのみに過ぎない、世界は大方そうして事を為さずに過ごしていった事がほぼほぼだったと推測せずにはいられなくなります。

元々映画『フィリップ』の原作から、想起した文章が書かれる成り立ち、意思についての考察でしたが、当時と現代社会が異なるにせよ、証を残すべきと…思いに至るきっかけは必ずあったのではと、自分を完結したくなる瞬間に抗えなくなるのです。

【漁港口の映画館シネマポスト 現在公開中作品の紹介】

ポーランド人作家レオポルド・ティルマンドが自らの実体験を基に1961年に発表し、その内容の過激さから発禁処分となった小説『Filip』。
第2次世界大戦、ナチス支配下のドイツを舞台に官能的な要素を加えて映画化。
監督はポーランドの名匠アンジェイ・ワイダの後年のプロデューサーを務めたミハウ・クフィェチンスキ。

フィリップはナチスによって両親や恋人を目の前で銃殺され、ナチスへの復讐を誓いフランス人になりすまし、ナチス上流階級の女性を次々と誘惑していく。しかし、プールサイドで見かけた知的で美しいリザとの出会いによって、復讐から一転愛に目覚め困難な時代でも心を自由にして生きていく姿を描く。



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