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「感傷マゾ」は「異常」ではない —リスク社会における自己とそのゆくえ

私たちは日々、様々な選択をしている。今日は何を着ていくか、昼は何を食べるかといった日常のことから、どの大学に行き、どのような仕事に就くのかという人生における大きな意思決定に至るまで、絶えず何かを選んでいる。しばしばその選択は悩ましく、私たちは「あの時こうしていたら今の自分はどうなっていたのか」「これからどう生きていくべきか」といった思いを抱くのである。

人々にとって「選択」がこれほどまでに重要になったのは、実はごく最近のことである。「あの時ああしていたら」という悩みは以前と比べ格段に大きくなっている。

前回の記事では、「制服ディズニー」と「青春ヘラ」を例に若者とノスタルジーの問題を扱った。そこで論じたのは、現代の「青春」や「ノスタルジー」は「あったかもしれない過去」と結びついた実践であるということである。例えば、「制服ディズニー」をしている人は既に高校を卒業している場合も多い。彼女たちは楽しかった高校時代をもう一度体験することや今の恋人・友人ともし一緒に青春時代を過ごしていたら、母校の制服がもっとかわいくて自分好みだったら、といった想像を再現することを目的としている。一方で「青春ヘラ」はコロナ禍で文化祭がなくなったことを、順当に行われていれば馴染めなかったかもしれないが行われなかったことで「文化祭が行われていれば楽しい青春の思い出になっていたかもしれない」という可能性が残されたという点で「救い」とも捉えている。どちらも「あの時こうしていたら」という反実仮想を、(真に過去を書き換えることはできないが)それなりに本当らしい現実として経験あるいは想像し未来にに残す営みとしての側面をもつ。

このことを踏まえつつ、今回は自己と選択の問題として「感傷マゾ」を考えていく。前半では主に後期近代論を参照しながら「感傷マゾ」というあり方が実は適応的な態度であるということを明らかにしつつ、後半ではなぜ自己に専心する「感傷マゾ」的な人々が同人誌を作り積極的に世の中に対してアウトプットしてきたのかということを考えていきたい。

※この記事はマガジン「感傷マゾ論考集」の3本目です。単体でもお読みいただけますが、ニッチなテーマを扱っているので背景知識を補いたい方は適宜過去の記事をご参照ください。


選択の重要性と近代

社会学においてはこの「選択」にまつまる問題を近代の特徴だと考えてきた。このテーマを扱ってきた社会学者は数多くいるが、今回は特に有名で、かつ個人のレベルで起こる問題を詳しく論じているアンソニー・ギデンズの『モダニティと自己アイデンティティ』とジグムント・バウマンの『リキッド・モダニティ』を主に参照する。

近代とはいかなる時代か

近代を近代たらしめているものとは何だろうか。ギデンズやバウマンは、近代以降の社会を形作る重要な性質は「再帰性」であると考えた。

近代化とは伝統社会を解体し、新たな、より良い秩序を作り出すことであった。政治体制や宗教から日常の習慣まで、停滞し凝り固まった慣例を評価し、「悪しき伝統」から人々を解放し、より良いものへ作り変えてきた。バウマンはこの営みを「堅固なものの溶解」と表現した。

では、徹底的な伝統の見直しによって伝統社会が近代社会にほとんど塗り替えられてしまった時、どのような社会が立ち現れるのだろうか。

近代化は伝統社会を解体しようとするが、初期の近代においてはただ無秩序な世界が生み出されたわけではない。例えばジェンダーの問題について考えてみるとよい。男は政治や外での労働といった公領域を担い、女は家事や育児といった私領域を担うという性別役割分業は、近代に入ってから形作られたものである。また、ロマンティックラブイデオロギー(恋愛・結婚・出産を一続きの過程として考える、結婚における恋愛至上主義)が広まったのも近代以降のことだ。近代は古い伝統に取って代わる、より良いと思われる堅固な秩序を新たに生み出してきたのである。

しかし、近代に生み出された秩序はどれほど堅固に見えたとしてもあくまで留保つきの結論である。あらゆる問題を「果たしてこれはもっとも良い形なのだろうか」という懐疑をもって再帰的にモニタリングすることが近代の性質であるゆえに、新たに生み出された秩序もまた常に疑いの眼差しを向けられる。現に、数十年前まで当たり前のものとされていた性別役割分業やロマンティックラブイデオロギーはいまや否定的な言説のほうが強い。これらを支持する人は完全にいなくなったわけではないが、(楽観的にみれば)支配的でなくなっていくのは時間の問題だろう。

こうした近代が純化していく時代をウルリッヒ・ベックは「第二の近代」、ギデンズは「後期近代」や「ハイ・モダニティ」、バウマンは「リキッドな近代」といった言葉で表現した。あるいは、近代が無限の再帰的モニタリングにかけられることから「再帰的近代」という表現も度々用いられる。注目している側面や論じ方に差異はあるものの、近代の行く末を考えたという点は共通している。

近代の先を考える上では「ポストモダン」という言葉もあるが、こちらは「後期近代(リキッドな近代、再帰的近代)」とは似て非なる概念である。「ポストモダン」はその名の通り近代の後に新しい時代がやってくるという考え方に基づいているが、後期近代はむしろ近代と地続きという捉え方に基づく。後期近代とは近代を突き詰めた末に起こってくる状況のことであり、駆動する原理は前期近代と本質的には変わっていない。

予測不可能性がもたらすリスクの増大

伝統社会において、伝統や慣習は革新されるよりも維持される傾向にあった。そのため、社会の変化は緩やかである。一方、近代はあらゆるものが留保付きで、より良く、より正しいものが現れればすぐにそれに取って代わられるため、変化は速い。今日最も確からしいと考えられている科学的事実はその最たる例である。科学によって現在明らかになっている事柄は、後にそれを覆す発見があれば否定されることになる。ゆえに、どれだけ積み重ねようともその知見が確定した真実になることはない。不治の病は治るようになるかもしれないし、まだ見つかっていない深刻な環境問題があるかもしれない。科学はより正しい事実が発見される可能性に開かれているからこそ、現時点で可能な限り正しいという留保付きで信頼を得ているのである。

あらゆるものが留保付きであるということは、今日の常識は明日の常識とは限らないということを意味する。そのような社会では、将来を見通すことは難しい。日々世界を良くしようと努力しているが、今やっていることが良いのかも、この先良くなるかも分からないという状況では、常に予測不可能な問題が起こるリスクを抱えて生きるほかない。

近代においてリスクが増大したというのは直感に反するかもしれない。なので、リスクとは何かということについてもう少し掘り下げておこう。たとえば今日の貧困層の生活は、数百年前の上流階級のそれよりもおそらく(少なくとも物質的には)豊かである。地震でも倒壊しない建物や洪水対策のダムが整備され、様々な観測や予測技術とともに前近代ではなすすべもなかった災害から人々を守るための方法ができつつある。近代化は前近代にあった様々な問題に対処してきたようにも思える。

しかし、前近代において、人々を脅かす貧困や災害といった様々な問題はリスクとして捉えられなかった。なぜなら、それらの大部分はコントロール不可能なものだと思われていたからだ。リスクとは、単に危険であるということではない。何らかの選択の結果として重大な問題や防げなかった事態が起こる可能性のことである。福祉政策や階級上昇のための努力、災害対策の知見といった問題に対処するための手段を手に入れたからこそ、人々は「もし将来このような問題が起こったらどうすべきか」ということを考えるようになる。この想定ができる領域は、人間がコントロール可能な部分を拡大するほど大きくなる。

新型コロナウイルスのパンデミックがいい例だ。天然痘は根絶され、先進国における死因の上位から感染症は姿を消した。医療の発達で感染症は克服され、細菌やウイルスはもはや脅威ではないと、多くの人が考えはじめていた。しかし、2020年代になって再び世界はパンデミックによる打撃を受けた。中国・武漢から広まったウイルスは、今日のグローバルな人流によって以前では考えられない速さであらゆる地域を呑み込んだ。グローバル化や情報化の進展で時間的・空間的距離が圧縮された現代において、重大な危険は世界のどこにいても逃れられるものではない。

たとえ新型コロナウイルスが収束したとして、今後また新しい感染症が発生したら同じように全世界に広がり、多数の死者を出し、経済や生活を脅かすかもしれない。パンデミックを経て、私たちはそのリスクを想像できるようになった。しかし、それがリスクとしてとらえられるのは、感染拡大は人間にはどうしようもない神の気まぐれではなく、ワクチンや薬の開発、ロックダウンや国境封鎖による人流の制限、手洗いうがいの習慣、リモートワークによる仕事の継続といった対処法があることを知っているからである。対処できるにも関わらず起きた問題は、むしろ対処できなかった者の責任になる。だからこそ、政府は次のパンデミックに備えて法律や各組織との協力体制を整備し、企業は非常事態でも事業を継続できるよう対策をとる必要に迫られる。

こうした対応は合理的で、当然すべきものではあるが、同時に未来は計算可能であるという考え方に基づいている。「もしこうなったら」という反実仮想的な推量によってあらゆるリスクを計算しコントロールしようとすることを、ギデンズは「未来の植民地化」と呼んだ。

未来予知が現実のものとなっていない以上、実際にあらゆるリスクを計算することは不可能だ。ゆえに、「未来の植民地化」は完全には達成されえない。未来には常に何らかのリスクがつきまとい、不安をもたらす。ロスリングが『FACTFULNESS』の冒頭で示したように、例え現実が良くなっていたとしても、そこにリスクがある以上人々は安心できないのである。

自己の再帰的プロジェクト

リスクへの対処は、前期近代においては主に政府などの大きな主体が考えるべきことであった。しかし、今日においてはあらゆる個人もまた「未来への植民地化」から逃れられない。では、後期近代における自己がどのように形成され、どのような問題を抱えているのだろうか。

ポスト伝統社会における自己は、伝統や規範のように再帰的に構築されるものとなる。ギデンズは、このような自己のあり方を「自己の再帰的プロジェクト」と呼んだ。

アイデンティティとは、単なる個人の性質の集合ではない。ギデンズによれば、それは「来歴という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己」だ。「私」がもつ様々な側面やそれを表すエピソードの中から、一つのストーリーができるようにいくつかを集めてくる、すなわちナラティブを作り上げること自体がアイデンティティを築くということなのである。

近代以前においては、自己は今ほど再帰的に作られるものではなかった。例えば、宗教的理由に基づく身分性がある社会を考えてみよう。そのような社会では、職業から言葉遣いまで、ある人がどのような人生を送るのかは身分によってほとんど決まっており、なぜそのような生き方を選んだのかといわれても「そういうものだから」「神がそう言ったから」ということになる。人生のあり方自体を決めるのも、その正当性の根拠となる論理も外部に依存している。

しかし、近代以降の社会は伝統やそれに代わって作られた秩序を解体し、人々が自分自身で生き方を決めることができるようにしてきた。住む場所も仕事も食べるものも、個人が自由に選択できるようになった。しかし、同時にその選択の確かな根拠となるものもなくなってしまった。明日の株価はもちろんのこと、前に例に出した通り科学的事実さえ正しいとは限らない。成長産業だと思って入った業界は20年後には時代遅れかもしれないし、昼食のサンドイッチに使用されている食品添加物は実は知られているよりも発がん性が高いかもしれない。しかし、毎度全てを疑っていては生活できないので、自分なりにリスクを吟味して選択を行うことになる。この選択は内的に準拠しているが、外部と切り離された自分の内側で完結しているわけではなく、外部の様々な情報を自分なりのやり方で再構成し結論を導き出すというやり方である。

この選択の問題は、アイデンティティにもいえる。人間には様々な側面があり、それらを構成してつくることのできるストーリーは一つではない。その中から一つの「自己」を選び取るとき、その選択は内的に準拠している。また、「自己」とはそれ自体が一つのストーリーとしての継続性を問題としているので、選択はその場限りでなく常に再帰的に確認される。「あのときこうしたのは本当に正しかったのか」ということを保証する外的基準を持たないため、自ら振り返って問い直し納得できる筋道をつくってやる必要があるのだ。

後期近代における自己とリスク

後期近代は、これまでと比較して自己の継続性が脅かされやすい社会である。自己は再帰的プロジェクトとして構築されるようになり、それを支える確かさをもつ外的基準はほとんどない。そして、グローバル化や情報化により、世界のあらゆる所に存在するリスクは自分の身に降りかかる現実的な問題になった。このような社会では、個人にとってもリスクを計算しコントロールすることが重要である。しかし、リスクはその全てを計算することができないため、リスクが完全に排除された安心な状態を作ることはできない。

感傷マゾと自己の再帰的プロジェクト

後期近代における自己のあり方とその問題について説明した所で、いよいよ感傷マゾについて考えていこう。

連載初回の記事では、感傷マゾを「虚構エモ」「ロジハラ萌え」の2軸を内包するものとして捉えた。この2つは、どちらも自己の再帰的プロジェクトと密に関わっている。

虚構エモと自己の再帰的プロジェクト

「虚構エモ」は、リアリティが欠如した偽物のようなエモさを表す言葉だ。今日では「エモい」という言葉が指し示す感情はノスタルジーであることが多いので、フレッド・デイヴィスの『ノスタルジアの社会学』を参照しよう。

デイヴィスは、ノスタルジアという現象はアイデンティティの連続性を維持できないときに断絶した過去と現在を繋ぎその連続性を取り戻す働きを持っていることを指摘している。これはまさにある時点から過去を振り返り再帰的に自分自身を理解しアイデンティティを構築していくという「自己の再帰的プロジェクト」の過程の一つのあり方である。

また、「虚構エモ」はその現実離れした美しさに対する奇妙な感覚を含意していて、それを強調する意味で「虚構」という言葉が使われている。デイヴィスはノスタルジアには過去を素朴に肯定的な響きで呼び起こす第一順位、「あの頃は本当にいいことばかりだったのだろうか」という疑いを抱く第二順位、ノスタルジアを感じることは現在や過去の私にとってどのような意味があるのだろうという第三順位と、自己をどの程度メタ的に見ているかで3つのレイヤーに分けている。「虚構エモ」がたとえ現実のものであったとしても「虚構」のように感じられるのはこの第二順位、第三順位の働きによるものだろう。デイヴィスのこの指摘は実体験をベースとしたノスタルジアを前提としているが、これはメディア体験を通じたノスタルジアの経験にも適用できるように思われる。メディア体験はほとんどの場合虚構—たとえノンフィクションだったとしても撮影や編集を経た作品は真に自分の経験とはなりえない—である。こうした虚構に対して「これは現実離れしている」と思うためには現実との対比が必要だ。つまり、虚構について考えると同じくらい現実も目を向けているのである「涼しい夏、広く澄んだ空、永遠に続く日常。こんなにも美しすぎる風景、現実には存在しない……」と虚構の夏に思いを馳せるとき、人は同時に自分が体験した現実の青春時代あるいは現在について考えている。ノスタルジアを感じるということは、アニメやゲームに没入しているときでさえ再帰的な自己の確認作業を伴っているのである。

ロジハラ萌えと自己の再帰的プロジェクト

「ロジハラ萌え」についても見ていこう。「ロジハラ萌え」とは、自分が目を背けている弱さや浅ましさをヒロインに代弁されたいという欲望である。ここでいうヒロインは具体的な作品の登場人物を指すこともあるが、真に他者としての他者ではない。「代弁」という言葉が出てくることからもわかる通り、むしろ自分自身の鏡像、あるいは「もうひとりの自分」ということができるだろう。

この「ロジハラ萌え」(感傷マゾの「マゾ」が表す部分)は、明らかにノスタルジアとは異なる。ノスタルジアはデイヴィスのいう通り「不快なものや苦痛を取り去った過去」であり、あえて自分自身の欠点を暴かれて不快な思いをすることを快楽とする態度はその正反対である。そしてこのことは、感傷マゾに共鳴する人々がしばしば自分は「異常」であるという理由にもなっている。

なぜ不快な思いをすることに快楽を覚えるのか。それは、「自己の連続性を確認する」ことが大きな快楽だからである。

自分の弱さや欠点を指摘されることは傷つきを伴うが、同時に自分自身を振り返る、つまり再帰的な自己の確認作業を行うことになる。変化が速く、自己を繋ぎ止めておくことができる堅固な外的基準が存在しない現代で人々は自己の連続性が感じられずばらばらになってしまうような不安(ギデンズは存在論的不安と呼んだ)に脅かされている。この不安は実存に関わるものであるゆえに強大で、解消することによって得られる安心は過去の過ちや欠点を指摘されることの痛みよりも大きい。過去の失敗や欠点は「誰しも失敗することはある」「見方によっては短所も長所」と割り切ることもできるが、「自己」そのものがなくなってしまうことに人間は耐えられない。自己の欠点を思い出すことは、アイデンティティが安定している人にとっては不快なだけかもしれないが、それが危機にさらされている人には救いになってもおかしくはない。

リスク社会という観点からいえば「弱さ」や「欠点」は「長所」や「武勇伝」よりも自己を再確認するための材料として優れている側面がある。それは、「肯定」は「否定」よりも批判にさらされやすいからである。

近代は、それがもつ再帰性により伝統的な認識や慣習の多くを塗り替えてきた。それにより新たに作り出された世界認識や価値観、規範などは、例えば「科学的事実」がそうであるように、常にそれが最も良いあり方なのかということについて再帰的な確認を必要とし、問題があればアップデートされるいわば「仮の真実」である。どれほど正しく思われようとも、あらゆるものが批判を受ける可能性を含んでいる。

それが当たり前の世界では、自分が長所だと思っていた点も批判される可能性がある。かつてアメリカ大陸を切り拓いた英雄とされたコロンブスが、奴隷貿易や先住民への仕打ちから非人道的な奴隷商人へ転落したように、ある時点で社会から良しとされていた行いがこの先も褒められることであり続けるとは限らない。その変化は今や人の一生よりも短く、若い頃の武勇伝が時代とともに炎上必至のパワハラ・セクハラエピソードになってしまったという経験をしている人は少なくないだろう。

そうした批判は、社会に対する悪影響があるものほど向けられる。「個人的なことは政治的なことである」ゆえに、それは個人的な行動や価値観であったとしても容認されることはない。SNSのいいねのために過激な発言をするとか、職場で根性論を説き部下に無理難題や残業を要求することに対して多くの人が関心を払いあれこれ批判を行う。

しかし、「他人の自己批判」に対して批判はあまり行われない。当たり前のことだが、反省している人に対してわざわざ何か言ってやる必要はない。さらにいえば、「自己批判」という態度は確定した性質や言動と異なり「再帰的に自己を確認し必要とあらば改良する」という「批判」を生み出す原理そのものである。ゆえに、それ自体を批判することは「批判し修正すること」自体の批判になってしまうのである。

自分のある性質や過去の行いをアイデンティティとすることは、それがいつか社会に容認されなくなったときにアイデンティティの危機に陥るリスクを孕んでいる。じかし、「自己批判」は否定することができない。だからこそ、後期近代において自分の「弱さ」や「欠点」はアイデンティティの材料としてある意味優れているともいえるのである。

感傷マゾの行く末

ナルシシズムと社会の喪失

自己が再帰的プロジェクトとして構築され、その連続性が脅かされる環境において、人々は絶えず自己を維持しようとしてナルシシズムに陥りやすくなる。ここでいうナルシシズムとは、単に自惚れや自己陶酔という意味ではなく、自己への専心だ。良い面に注目するか悪い面に注目するかは人それぞれだが、どちらにせよ自己が大きな関心時になっていく。

バウマンはこのような状況を悲観的に捉えている。個人化が進んだ世界においては、伝統や前期近代のしがらみから解放された反面、人々が他者と協力して何かを成し遂げることはない。政治は市民社会の倫理を備えた人々による理性的な営みではなく、私的な告白になる。人々が集まるのは、消費がもたらす瞬間的な快楽か、存在論的不安の解消のために「共同体」に閉じこもり異質な他者を排斥する時だけ……。バウマンが描いた流動的近代は、人々が自己に専心した結果「社会」がなくなってしまう世界であった。

ギデンズは様々なしがらみから解放され個人の自律性が発揮される社会を考えていたが、残念ながら世界はバウマンが指摘した方向に進んできたように思われる。人生について様々な選択肢を持ち自分らしく生きていけるのは一握りのグローバルエリートに留まり、そうでない人々の一部は時に自己啓発やセラピーにのめり込んだり、都合のいい情報ばかりを摂取して陰謀論者になったり、レイシストになって移民を攻撃したりしている。「あの時ああしていたら」という選択肢は大量に見えているのに、実際にそれを自分のものにできるかどうかは結局のところ格差という壁がある。これらの問題を解決するためには、人々が長期的な視点で多くの他者と協力し、もう一度「社会」を作り上げていくしかないだろう。

なぜ感傷マゾは批評や創作と繋がったのか

「感傷マゾ」は社会を壊してしまうのか。自己への専心という観点からいえばそうともいえる。だが、私はそうでない側面を強調したい。

「感傷マゾ」はその概念だけを見ていると自己完結しているように思われるが、その展開は社会的な営みであった。いくつもの団体が「感傷マゾ」について考えるサークルを結成し、文学フリマなどの即売会で同人誌を頒布するという形で継続的な広がりを見せたのである。

サークル活動は趣味の領域だが、実際に行うのは簡単ではない。私もボカロ同人サークルで即売会に出る等の活動を行っているが、共同で何か作品をつくるためにはモノを作る能力があってかつある程度の期間同じ方向を見据えて協力できる人々が集まる必要がある。プロジェクト管理や即売会の申し込みといった雑務の労力、制作のための金銭的コストも馬鹿にならない。雇用契約や法・規範による拘束もない、ただ一緒にやりたいからという理由だけで集まった「純粋な関係性」に基づく組織を、長期間にわたって維持しながら目標に向かって駆動するためには、小規模ながらも流動的近代における「社会の消失」に関わる難しい課題を解決しなければ実現できない営みである。

さらに、「感傷マゾ」についての同人誌は批評を扱った。一冊の中には批評以外にも小説やエッセイ、イラストを含む総合的な創作活動の成果として出しており純粋な「批評誌」を名乗らないものが多いが、それはむしろ「批評とは何か?」という問いに対する誠実さの表れに思える。

批評においては、ある作品やカルチャー内部のテクストだけを読み込むのではなく外部と結びつけながら作品や作者を理解していくことがほとんどだ。そのためには、作品に没入するのではなく一歩引いたうえで熟考する鑑賞的態度を要するが、これを身につけるためにはそれなりの修練が必要である。その場の情動に任せるのではなく理性的な消費をすることは、創作物を通じた「他者としての他者」とのコミュニケーションを可能にする。

例えば、大阪大学感傷マゾ研究会が発行する『青春ヘラ』は、1冊目こそ自己の内省を軸とした文章が多いものの巻が進むほどにその視点が外部に向いていく。「エモ」「青春」という軸を持ちつつも音楽、都市、インターネット、廃墟、病みカルチャーに至るまで広範なテーマを扱い、和田たけあき、loundrowのような有名クリエイターのインタビューや佐々木チワワ、三宅香帆といった話題の書き手の記事も掲載している。早稲田大学ボカロマゾ研究会による『ボカロマゾ』はボーカロイドを扱うだけ合ってメディアやテクノロジーについての深い洞察がなされているし、感傷マゾを冠してこそいないものの関連同人誌の主催者や寄稿者が編集・執筆を行う『Z世代のフツウ』はインタビュー調査をもとにした「若者による若者論」を展開していて興味深い。

こうした展開を見てなお、「感傷マゾ」が自己への専心だといえるだろうか。はじまりは自らが抱いた情動だったかもしれないが、それを深く追求することによってむしろ社会に対して開かれていったのである。これは、存在論的不安の脅威は、理性的な思考と議論によって対処すれば必ずしもナルシシズムや衝動的な快楽の消費に溺れてしまうとは限らないということを示す事例ではないだろうか。

社会の流動化は人々が共通の問題に対処することを阻害するが、一方で自己についての大きな共通の問題を生み出した。今、自分自身について考えることは人々が行動を起こすための重要な動機になる。正しい道筋さえつけることができれば、再び他者とのコミュニケーションを促し「社会」を取り戻す原動力することもできるだろう。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で話題になった三宅香帆は、同書の中で出版社がいかに人々のスノッブな心理を利用して労働者に読書や教養を広めてきたかを明らかにして再評価した。消費のフラット化・個人化が進み、文化が差異化のツールではなくなってきた現代において、「応接間に置くための立派な全集」のような自己顕示欲を掻き立てるやり方の代わりに「自分自身をよく見つめる」ことで知らない世界と出会わせるための仕組みを作ることはできないだろうか。

おわりに

文化を通じて自己を社会と接続するためには何が必要か?

ほとんどの人にとって、アニメを観ることや音楽を聴くことは起業や社会運動への参加よりもハードルが低い。人々を理性的な思考や議論に動機づける上で、「感傷マゾ」のようにサブカルチャーを経由するのは比較的現実的なあり方だろう。

しかし、今日の文化消費をみるとその道も前途多難だ。三宅が指摘したように、現代ではノイズのない情報が好まれる。これは読書に限った話ではなく、あらゆる表現にいえることだ。ではいかにしてノイズと出会うための文化消費を広めることができるのか。本記事は既に1万字を越えていておおよそwebで読む分量ではなくなっているため、(当初の予定より一回減ってしまうが)次回この問題を扱って連載を終えたい。


感傷マゾに関する連載はこちら

参考文献
Anthony, Giddens, 1991,Modernity and Self-identity: Self and Society in the Late Modern Age, Cambridge:Polity Press.(秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳,2021,『モダニティと自己アイデンティティ —後期近代における自己と社会』,筑摩書房)

Fred Davis, 1979, "YEARNING FOR YESTADAY: A SOCIOLOGY OF NOSTALGIA", New York: The Free Press(間場寿一・荻野美穂・細辻恵子, 1990, 『ノスタルジアの社会学』, 世界思想社)

Hans,Rosling and Ola,Rosling,2018,Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About the World--and Why Things Are Better Than You Think,New York:Flatiron Books(上杉周作・関美和訳,2019,『FACTFULNESS―10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』,日経BP)

三宅香帆,2024,『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』,集英社

Zygmunt, Bauman, 2000,Liquid Modernity,Campridge:Polity Press.(森田典正訳,2001,『リキッド・モダニティ』:液状化する社会,大月書店.)

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