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なぜ若者の間でノスタルジーが流行るのか? 「制服ディズニー」や「青春ヘラ」の正体を探る

レトロという言葉はいつのまにか昭和のみならず平成にまでつくようになった。Y2Kファッションや「写ルンです」「オールドコンデジ」ブーム、シティポップや90年代JPOPリバイバルなど、様々な文化が再発見され流行している。

「青春」もまた、近年のキーワードである。新海誠「君の名は。」をはじめとするアニメ作品からもはや夏の定番となったポカリスエットのCMまで、メディアにおいて「青春」は重要なテーマである。若者自身もまた、「制服ディズニー」といった形で体験を通じてノスタルジーに浸り、SNSを通じてその姿を公開する。

なぜ世の中にはこれほどまでにノスタルジーで溢れているのだろうか。その答えは、私たち自身の内側にではなく、外側にある。ノスタルジーは私たちが思っている以上に社会が深く関わっている情動だ。本論では、この問題についてノスタルジアに関する古典的研究を読みながら検討していく。

ノスタルジーに関する学術的な研究は決して多くない。そして、その大半は「いかにノスタルジーを喚起して商品を売るか」という経済学の消費者研究として行われてきた。こうした研究は、ノスタルジーがどのように形成されてきたかという疑問の答えをくれるわけではない。

そこで、本稿ではF.Davis『ノスタルジアの社会学』を参照する。原著が書かれたのは1979年と古く、厳密な社会調査を行った研究でもないのだが、「なぜ今ノスタルジーが流行るのか」という疑問によく答えてくれる数少ない文献の一つである。Davisの議論を追ってノスタルジーが形成されるメカニズムを明らかにしながら、現代社会がどのような姿になっているかについても扱っていく。なお、今後「ノスタルジー」ではなく「ノスタルジア」という言葉を頻繁に使うことになるが、これはDavisが「ノスタルジア」を使っているからである。フランス語か英語かという違いしかないので、本稿では両者とも同じものと考えてよい。


ノスタルジアは「過去」ではない

ノスタルジアの題材となるのは基本的に過去である。しかし、Davisによればノスタルジア自体を作り出すのは過去ではなくむしろ現在である。そして、過去の出来事にノスタルジアを感じられるかどうかは、それが現在の状況や傾向とどれほど対照的である(と感じられる)かどうかであるという。そのことを踏まえ、Davisはノスタルジアを「現在もしくは差し迫った状況に対するなんらかの否定的な感情を背景にして、生きられた過去を肯定的な響きで持って呼び起こす」と定義した。

つまり、ノスタルジアを感じる上で重要なのは過去の出来事自体がもつ良さではなく、現在と過去の出来事との関係性であるということだ。私たちが80年代の日本にノスタルジアを感じるのだとすれば、それは80年代の日本が本質的に良い時代だったからではなく、例えば経済が低迷して将来的に豊かになっていくビジョンが見えない「現在」に対して相対的に輝いて見えているという側面があるからである。だから、私たちは逆に80年代の日本に対して「性差別的な規範が残っている」とか「若者が消費にかまけて政治から撤退した」などと悪い部分を指摘して批判することもできるし、そういう時にはノスタルジアを感じない。

そう考えると、平成がノスタルジアの対象となるのも十分に可能だということがわかるだろう。平成という時代はバブル崩壊にはじまり、就職氷河期を経てITへのゲームチェンジにも乗れず失われた10年が20年、30年と延長した経済低迷の時代である。また、戦後久しくなかった日本を揺るがすほどの大地震が阪神・淡路大震災という形で起こり、2011年の東日本大震災では大規模な津波や未曾有の原発事故を経験した。他にも地下鉄サリン事件など人々を社会不安に陥れるような出来事がいくつもあった時代である。

しかし、ノスタルジアは「現在」と「過去」の相対的な関係で決まる。例えば、90年代や2000年代はほとんどの人にとってネットの炎上も誹謗中傷も関係なかった。いいねの数に翻弄されることも、大量の広告にダイエットや転職を促されることもなかった。このように、どんな時代にも主観的に対照性を見出すことができればノスタルジアは感じることができる。ゆえに、ノスタルジアに表れてくるのは「過去」よりもむしろ「現在」の状況である。

何がノスタルジアを呼び起こすのか

では、人々がノスタルジアを感じやすくなるのはどのような時だろうか。先程までの議論を踏まえれば、現在置かれている時代や状況の本質的な良し悪しは関係がない。どの時代であれ、どんな状況であれ、人々はそこに肯定的な感情も否定的な感情も見出すことができる。

Davisによれば、ノスタルジアと決定的に関係があるのはアイデンティティの連続と非連続の問題である。自己や集団の外部の変化の速さに内部が追いつかなかったり、内部の変化に対して外部が動かなかったりして適応できなかったりしてアイデンティティが危機にさらされる時、ノスタルジアは過去と現在の連続性を思い出させ同一であることの安らぎを与える働きをするという。

ノスタルジアが起こり、過去と現在が連続していることを確認する時、自己に対する鑑賞的な態度が育てられる。Davisによれば、そのはたらきによってノスタルジアにはいくつかの傾向がみられる。

一つは、思い出される過去の中からは不快なものや苦痛を取り去って、過去を賛美できるようにエピソードを選び出す傾向だ。ノスタルジアは、それが不況や若気の至りといった思い出したくないものを部分的に含むことはあれど、全体で見れば基本的によい情動である。ノスタルジアに浸る時、本当に辛かった過去は記憶の中から消し去られ、平凡な日常を魅力的なものとして発見する。

もう一つは、隠れた自己を再発見する傾向だ。「自信家だと思われているけど実は不安定で内向的だった」「堅苦しいイメージの仕事についているが、隙を見てサボりながらくだらないジョークを考えている」といったように、世間一般とは異なる自己を見出すという種類の自尊はノスタルジアによく見られる。サブカルチャーにおいては、例えばインディーズバンド、単館上映の映画のように、周りとは違う「風変わりな」ものを好んでいたということは、ノスタルジアの恰好の材料になる。もしも若い頃に観ていたバンドや映画監督が、後に誰もが知る存在になったのならなおさらだ。

なぜ若者の間でもノスタルジアが重要なのか

ノスタルジアは、すっかり老いてしまった人間のすることだと考えられているかもしれないが、それは違う。先程も述べたように、ノスタルジアは過去と現在が不連続に思われる時、その連続性を確かめることによって人々に安心感を与えるという効果がある。ゆえに、ノスタルジアが起こるのは変化の激しい時である。

少なくとも現代の日本社会において、人生のうち最も変化が激しいのは青年期から成人期初期にかけてである。学生時代は学校という制度上、中学、高校、大学と3,4年で環境が激変する。その間、正規のカリキュラムだけでなく、放課後や部活動、サークルなど様々な場面において他者と交流し多くのことを学ぶ。また、日本においては高校、大学(あるいは高専、短大、専門学校など)を出れば、間をおかずに就職するのが一般的だ。就職という環境の変化は、単に学習の場から労働の場へ移動するというだけではない。少なくとも日本では多くの場合、学校で身につけた専門性とは関係のない職種につくために、これまでとは異なる能力を要求される。また、非常に幅広い年代、立場の人々と、様々な関係性(上司と部下、取引先のような)をもつようになる。しかし、一度仕事に慣れてしまえば、後の人生において環境の変化がそれ以上に激しくなることはめったにない。なぜなら、崩壊したという言説が当たり前になってなお、実態として長期雇用が一般的で、(学校が変わるほどのスパンで)頻繁に転職することはまれだからだ。

また、近年の状況の変化は、個人にとってのみならず集団や社会にとっても非常に速いものになっている。例えば今日の大学生は普段からSNSを使いこなしているし、コロナ禍においては講義すらZOOMなどを利用して自宅で受講した。しかし、それが可能になったのはここ十数年の出来事である。SNSや動画サイトといったものが普及しはじめたのは2000年代後半で、それ以前には大きいファイルであれば送ること自体が大変なことであった。レポートはワープロか手書きであったし、連絡はガラケーやポケベル、それもなければ駅の掲示板を使っていた。他にも、バブルで経済はどこまでも成長していくと思われたし、今ほど街中に外国人はいなかったし、アニメは表立って公言できる趣味ではなかった。目に見えて生活をとりまく状況が変化していく中で、「若者らしさ」「日本らしさ」といった集団的アイデンティティもまた維持することは難しい

このことから、若者は二重の激しい変化にさらされていることがわかる。個人のライフコースでいえば、急激に環境が変化する受験や就職といったイベントが矢継ぎ早に流れてくる。また、急速な時代の変化において、例えばデジタルネイティブなどと呼ばれるように新しいテクノロジーやカルチャーに敏感な若者は、ものの数年で世の中が大きく移ろうことをよく知っている。 ゆえに、むしろ若者こそノスタルジアを必要とする存在なのである

さらにいえば、現代では私生活と社会のどちらにおいても素朴に未来が明るいと信じることは難しい。経済が成長しない中で失業、貧困、物価高による生活苦は常にリアリティのある問題だ。あるいは戦争や環境問題といった巨大なリスクいつか生活を破壊するかもしれない。そのような状況では、先が見えない未来とは対照的な、確定した過去のほうがましである。現在の要求に合わせて再構成された、不快なものや苦痛を取り去った過去は、将来への不安を癒やす鎮痛剤的な役割を果たす。

もちろん、若者がノスタルジアを感じやすいからといって、歳を取るごとにそう感じなくなるというわけではない。青年期から成人期初期にかけてのダイナミックな人生の展開は、人生が退屈に収束していくように思えるミドルクライシスの時期には対照的な時代に思えるので、青春は中年以降のノスタルジアの良い材料になる。また、転勤や転職、引っ越し、結婚と離婚、親になること、退職など人生には様々なイベントが起こる。変化が速く、流動的な社会においては、どのような世代であってもノスタルジアを感じやすい条件を満たす。数百年、あるいは数十年前と比べても、全人口的にノスタルジアを感じやすい時代といえるのではないだろうか。

未来のためにノスタルジーの素材を用意しておくという戦略

現代の高校生や大学生は、少なくとも今の50代以上が考えるよりもはるかに、気楽な生活を送っていない。かつて大学が「レジャーランド化」したと言われていた時代もあったが、現代の大学生は、程度の差はあれど講義に真面目に出席し勉強している傾向にある。そして、ここ30年ほどの大きな変化といえば、就職活動の早期化・長期化である。就活解禁時期はなし崩しに前倒しになり、それ以前にも様々なイベントが行われる。人気業界を志望するなら1、2年生、そうでなくとも3年生の夏休みにはインターンに行き、機会があれば早期選考に応募する。4年生になれば面接のために大学を休み、講義や卒業研究ゼミの途中であっても結果通知の電話を取りに教室の外へ出ていく。もはや遊びどころか、まともに学業もできない状況がある。こうした大学生の現状については、後に投稿する記事で詳しく取り扱う。

そして、大学生にとって就職した先の人生は学生生活よりも魅力的ではない。これから働く職場はブラック企業かもしれないし、運良くホワイト企業に入社しても、終身雇用や年功制、会社の業績が上がり続けることももはや信じられない。数十年前であれば働き始めて忙しくなる代わりに得られていた安定や暮らし向きの改善は見込めず、リスクだけが横たわっている。

また、大学生活の多くが就職活動に費やされることは、おそらく高校生の大学イメージにも影響を与えるだろう。大学がとうにレジャーランドでないとすれば、もはや無邪気に楽しく過ごすことができるのは高校生までということになる。以前は大学生になったら酒を飲み、バイトをして旅行に行き、渋谷や原宿で服を買いといった夢を膨らませることができたかもしれないが、それが信じられないのなら高校生のうちに楽しい思い出を作っておかなければならない。

何のために制服でディズニーランドに行くのか

そのような状況をよく反映しているのが、「制服ディズニー」である。

「制服ディズニー」とは文字通り制服でディズニーランドに行くことを指すが、この行為は「SNSに投稿する」ことと切り離せない。ゆえに、「制服ディズニー」はSNSを通じて行う自己呈示と密接な関わりをもつが、この時自己を呈示したい相手とは誰なのだろうか。ここではInstagramを例に考えてみよう。

一つは他者である。SNSのフォロワーやいいねの数を増やして承認欲求を満たすというのは、ずっと前から言われてきたことだ。特にInstagramにおいては華やかで幸せそうな様子を写したポジティブな自己イメージの提示が行われる。そして、投稿する写真は「加工」することが当たり前だ。Instagramを使い慣れている人々は、自分が入った旅行先の景色や食べたものから友達といっしょに楽しんでいる自分自身の姿まで、現実以上に美しく撮影し、良く撮れたものを選び取り、加工し、投稿することに習熟している。

そして重要なのはもう一つの相手、「未来の自分」である。Instagramに投稿した写真は、端末を変えても簡単に見直すことができる。今ではGoogleフォトのようなクラウドのサービスを使えば画像の引き継ぎは手軽にできるのだが、それでも友達と「あの時旅行に行ったよね」と言いながらカメラロールよりもInstagramの投稿欄をさかのぼることはよくあることである。

Instagramは思い出を残すツールとして優秀だ。それは、動作が軽いとかUIが見やすいといったツールとしての便利さに限らない。Instagramに投稿する写真は、投稿までの過程でより美しく見えるように構図や光の具合を気にして撮影し、よく撮れたものを厳選し、加工するという作業を経る。ゆえに、投稿欄に残っている写真は、思い出の最も美しかった瞬間をさらに美しく加工したものということになる。ノスタルジーを感じるために想像力をはたらかせて苦痛や不快なものを消し去るるまでもなく、美しい自分の過去ばかりが並んでいるInstagramは、思い出に浸るためのこの上ないツールとして機能するのである。

「制服ディズニー」のもう一つの特徴は、実際にやっている人の多くが大学生など既に高校を卒業した人々であるということだ。(*1)

彼女たち(調査データがあるわけではないが、メディアの報道や実際に見聞きする数からして多くは女性と考えて良いだろう。男性がやる場合はカップルであることが多いと思われる)が制服を着てディズニーに行くのは、存在しない理想の青春を疑似体験し、思い出として未来に残すためである。

高校を卒業してから行く「制服ディズニー」がもたらす効果は主に2つある。

一つは理想の青春を体験することである。高校生の頃に恋人や友達とディズニーに行くのは、大学生がそうするよりもハードルが高い。ディズニーランドのチケットは高額で、特にアルバイト禁止の高校に通う人にとっては負担が大きい。また、東京・千葉近辺に住んでいなければ追加で旅費かかるし、泊まりの外出を許されるかという問題もある。一方で、大学生になれば上京したりアルバイトをはじめたりして経済的・地理的問題を解決する手段を持ち、より自由に行動することができる。あるいは、高校時代にディズニーランドに行ったことがあったとしても、今の恋人や友達が高校卒業後に出会った人であれば高校生の彼ら・彼女らと一緒に行ったことはない。今大切な人と高校生気分でおそろいの制服でディズニーランドに行くという存在しなかった「理想の青春」を、コスプレ的な制服の着用によって実現することには十分に価値がある。

もう一つは、未来の自分にノスタルジーの素材を提供することだ。先程も述べた通り、服を着て撮った写真をSNSに投稿することは、自分がいかに楽しい時間を過ごしているかということを他者だけでなく未来の自分にも呈示するということである。コスプレ的に制服を身にまとうことによって作り上げた「理想の青春の記憶」を、撮り方や加工によって最大限美しい写真として記録する。その写真は、本当に現実の高校時代の記憶と混同されてしまうことはないだろうが、将来それを眺めながら自分にも最高の恋人や友達に囲まれて楽しく過ごしていたのだと思い返しノスタルジーに浸るための材料とは十分だ。

こうして文章に起こしてみると彼女たちは随分とまわりくどく奇妙なことをしているように思えるかもしれないが、それは違う。スマホどころかデジタルカメラが普及する以前から、私たちは大切な人との思い出の品を形見として手元に置いたり、家族が増えれば写真館に行って晴れ着の写真を残したりしていた。思い出づくりというのは昔から存在するものである。「制服ディスニー」がそれらと異なる部分があるとすれば、手軽に写真が撮れるようになったことでほとんどあらゆる体験が記録・加工できるようになったことと、それがSNSを通して(時に不特定多数の)他者への自己呈示と一体化し、日常に侵入していることであろう。

存在しない理想の青春に対する想いを言語化した「青春ヘラ」

「制服ディズニー」を実践する人が先程述べたような背景心理を言語化して説明できるかと言われれば、多くの人はそうではないだろう。一方、「存在しなかった理想の青春」にまつわる自分の経験や心理を積極的に分析し、言語化してアウトプットしている人々もいる。彼らが生み出したのが「青春ヘラ」という言葉である。

「青春ヘラ」について簡単に説明しておこう。「青春ヘラ」は、「感傷マゾ」という、存在したかもしれない理想の過去を考えながらそれを体験できなかった自分に対する後悔、傷つきを心地よく思うというあり方を表すジャーゴンから派生した言葉である。「青春ヘラ」はとりわけ「感傷マゾ」の中でも「青春」に対するコンプレックスに伴う情動や悩み、考え方を指す。定義の細部については人によって様々なこだわりがあるのだが、その多くはノスタルジーと重なる(*2)。詳しくは注や前回の記事を読んでほしい。

近年、「感傷マゾ」をテーマとした批評・小説などを掲載する同人誌が様々な団体によって作られている。特に2021年頃から大学サークルの存在感が増し、大学生が「感傷マゾ」に関わる言説の発信源として大きな影響力をもつ世代になってきた。

中でも会誌「青春ヘラ」を発行し、東京で行われる文学フリマにも積極的に出店するなど精力的に活動を行っている大阪大学感傷マゾ同好会という団体がある。代表であり、「青春ヘラ」という言葉の生みの親でもあるペシミ氏は、「存在しなかった青春」について興味深い捉え方をしている。

ペシミ氏は高校3年生の年にコロナを経験し、行事や部活動からささいな休み時間の過ごし方に至るまで様々な制限を受けた。そのことについて「青春ヘラver.1 「ぼくらの感傷マゾ」」に掲載された「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」で語っているのだが、本来あったはずの青春が奪われてしまったことは喪失であるとともに希望でもあるという。

 しかし同時に、青春の欠落は希望でもある。超自然的な不可抗力によって失われた青春に可能性を見出すことは誰でもできる。仮にコロナウイルスがなければ、各種行事は滞りなく行われ、学校生活は何も変わらなかった。その場合、僕は青春ができなかったときの言い訳ができなくなってしまう。強制的に奪われた青春になら、いくらでも言い訳ができる。
 「もしもコロナがなければ青春できていたんじゃないか……」という希望的観測の中にこそ、僕の青春が詰まっているのである。

ペシミ,2021,「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」より

青春が奪われたというのは、何も障害がなければ青春を全うできていた可能性が高い者にとっては喪失でしかない。しかし、そのまま時が進んでいても別の理由で青春にコミットできる見込みが低かった者にとっては、その可能性の低さをうやむやにしてしまうほうが帰って都合の良い思い出になるというのである。ペシミ氏はツイキャスで行われた対談で、同様の理由で高校2年生の文化祭にあえて行かないという選択をしたと語っている。

あえて文化祭に行かずに文化祭を楽しめたかもしれないという可能性を残しておく、という態度は制服を着てディズニーに行き楽しそうな写真を残すことと同じく未来のノスタルジーへの準備ととらえることができる。異なるのは、「制服ディズニー」が積極的に新たな過去を構築しようとするのに対し、「青春ヘラ」は徹底的に「諦める」というアプローチをとる点である。雑誌「青春ヘラ」に収録されているエッセイの中にはしばしば「制服ディズニー」をするような所謂「陽キャ」に対するルサンチマンが書かれていることがあるが、意外にもそれを駆動する心理は「制服ディズニー」と近いのではないだろうか。

ノスタルジーと社会の関わりを考える

ここまで、ノスタルジーという情動がいかに社会状況の影響を受けているかということ、それが若者にとっても重要になっていることについて述べてきた。最後になぜ今ノスタルジーを考えるのかということに触れておきたい。

ノスタルジーは情動である。基本的に内面で完結すると思われている情動は、その原因が個人の内側に由来すると考えがちである。すると、苦痛や悲しみ、喪失感すらその原因は個人に求められ、辛いのは自分のせいだと思いこんでしまいかねない。

しかし、実は情動は社会的に作られる側面が大きい。自分の無意識から湧き上がる情動を制御することは困難なことに思えるが、漠然としたフラストレーションの原因が社会状況にあるとわかればその条件を変えることで根本的な問題解決を図ることができるかもしれない。「制服ディズニー」や「青春ヘラ」についてその状況をかなりドライに読み解いてきたが、そうすることがかえってその場限りの不安の解消よりもより良い未来をつくるための建設的な議論に繋がると考えるからである。

ノスタルジーは過去よりも現在を反映する。もっといえば美化された過去と対照的な現代の問題を映している。ならば、ノスタルジーが多くの人にとって重要な社会は色々問題含みだということだ。自分の心の内側ではなく、あえて外側に目を向けることこそが、自分や社会がどうなっているのかを知り、前に進んでいくために重要なのではないだろうか。

(*1)井上ら(2014)の取材ではインタビューを行った半数以上が高校を卒業した世代であり、「高校のときはディズニーに来なかったので、やっとけばよかったと思っていた」など高校生活でやり残したことを取り戻したいという理由で来ているという語りが得られている。また、鈴木(2023)は、制服のレンタルや販売を行うカンコー学生服のイクスピアリ店オープンに際し取材を行っている。2週間の間に利用した人の多くは女子高生と女子大生で比率は半々くらいだという。

(*2)スタルジーの語源はギリシャ語のnostos(家へ)とalgia(苦しんでいる状態)に由来し、当初はヨーロッパの傭兵(とりわけスイス人)によくみられた極度なホームシック状態を指し病気として扱われていた。今ではノスタルジーを病気だと思っている人間はいないが、それでも様々な「苦痛」と密接に関わる情動である。ゆえに、ノスタルジーについて考えることで、単なる過去を懐かしむ気持ちとしてだけではなく、「感傷マゾ」の「マゾ(=ロジハラ萌え性)」をもとらえることができるだろう。

また、わくら(2018)に収録されている「四周年記念座談会」では、感傷マゾには素朴に鬱展開を消費する第一段階、虚構の存在であってもヒロインを自分の快楽のために消費していいのかと悩む第二段階、その罪悪感を虚構のヒロインに糾弾されたいという第三段階があるという。これに対しDavis(1979)は、ノスタルジアには過去を素朴に肯定的な響きで呼び起こす第一順位、あの頃は本当にいいことばかりだったのだろうかという疑いを抱く第二順位、ノスタルジアを感じることは現在や過去の私にとってどのような意味があるのだろうという第三順位があるという。この2つは厳密な対応関係にあるわけではないが、複数段階で自己をメタ的に見ているという点では似ている。この意味でも、「感傷マゾ」はノスタルジーに近いと言ってよいのではないだろうか。


この記事は、感傷マゾについての論考集「夏が来たので感傷マゾの話をしよう」の第二回です。興味を持った方はぜひほかの記事も読んでみてください。

「感傷マゾ」概念の解説と各記事の概要(予告)はこちら。

参考文献
Fred Davis, 1979, "YEARNING FOR YESTADAY: A SOCIOLOGY OF NOSTALGIA", New York: The Free Press(間場寿一・荻野美穂・細辻恵子, 1990, 『ノスタルジアの社会学』, 世界思想社)

井土聡子、野場華世,2014,「まだ似合う? 卒業したけど「制服ディズニー」」,NIKKEI STYLE,024年7月25日閲覧,URL:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO75420860Y4A800C1HF0A00/

ペシミ,2021,「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」,青春ヘラ ver.1,大阪大学感傷マゾ同好会,pp14-25

鈴木朋子,2023,「若者はなぜ「制服」でディズニーに行くのか」,Impress Watch, Impress,2024年7月25日閲覧,URL:https://www.watch.impress.co.jp/docs/topic/1483006.html

わく・スケア・たそがれ・かがみん,2018,「四周年記念座談会」,感傷マゾ VOL.1


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