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「お金に余裕があると料理が楽しくなる」この冷酷な説は真だと思いますか?(#料理の文化人類学)

※「#料理の文化人類学」
最近、私の興味はマンマ(お母さん)・ノンナ(おばあちゃん)から若者の料理にまで広がり、ボローニャに住む、私と遊ぶような20代30代の子たちに料理を作ってもらっては、「料理の豊かさって結局なんだろう」「どうやったら料理を作る人が増えるだろう」と色々と考えています。

「お金に余裕があると料理が楽しくなる」

皆さんはこの冷酷な説は真だと思いますか?

先日、33歳、カラブリア出身で今はGoogle Adsで働いてる男の子と話してて思ったこと。

彼は25歳くらいまでその日の暮らしのことしか考えられないくらい貧しくて、電気代ガス代を払えるか不安になるくらいで、育った実家の生活もキツキツだったから、数年前まで料理なんて食費を浮かせるための義務でしかなかったといいます。

作るものは、缶のツナや豆を作ったパスタばかりで、友達とはピザを作ったり。

学生だからそんなものかと思いきや、実家でも、お母さんはいつも料理をして美味しかったけれど、肉屋でお肉を買うことはなく、安いスーパーでパッケージされた肉を買うのみ。海沿いに住んでいるけれど、魚が食卓に上がることはすごく稀だったと。

南イタリアだからクリスマスは大層豪華な食卓を囲むのかと思いきや、あんな風にテーブルに赤と金のテーブルクロスを引き、蝋燭を立て、お皿を何枚にも重ねる、いわゆるクリスマスのテーブルコーディネートなどというものもなく、家族4人で普通の食事をするのが毎年のクリスマスだったと。

ボローニャに来て、しっかりとした収入が入る職について、数年前から初めて肉屋で肉を、魚屋で魚を買うようになったといいます。

それから料理が楽しくなって、自分で色んなレシピに挑戦するようになって。

実際、すごい料理を作るのです。また土曜日にお招き頂いたので、見てきますね。文化人類学のフィードワーク!(はーと)

いやー、この話をしていた時、ハッとしましたね。

私が触れ、見ていた世界、マンマが料理を楽しんでいる世界は、実はマイノリティだったのかもしれない。

料理は、ある程度お金に余裕がないと楽しめない、ある種の特権なのだろうか。

確かにあまりに貧しいと遊べないかもしれない。ラインはどのくらいだろう。1日5ドルかな、4人家族なら20ドル使えますから。

「お金に余裕があると料理が楽しくなる」、書くと冷酷な、この件について少し思考を巡らせてみます。

思い当たる節①20世紀イタリア農家料理の歴史

確かに、思い当たる節があります。

1つめ。

ボローニャ大学の修士論文で、20世紀のイタリア農家料理を研究していた時のこと。

元農家さんの家庭を訪ね、料理を作ってもらいながら、1960年代、1970年代、80年代、90年代の料理についてオーラル・ヒストリーで話を聞いていました。

ここで気づいたのは、明らかに1970年代に、料理に変化が訪れるのです。
(正確にはエミリアでは70年代前半ー後半、プーリアでは70年代後半ー80年代。)

「Miracolo economico」と言われる経済成長が農村にもおよび、第一に人々が経済的に豊かになり、第二に、スーパーが到来し、買い物をするという、それまでの自給自足生活から「食材を選んで買う」ようになります。

おばあちゃんたちは、料理が楽しくなったのはここからだったと言っていました。

彼女たちは当時を振り返り、60年代くらいまでは、メニューも対して変わらず、その日家にある材料を使って決まったものを作っていたけれど、食材費としてお金を使えるようになってから、新しいレシピを試したり、良いものを調理することができるようになり、料理が楽しいと感じるようになったのはその辺りからだと。

”手に入る食材で本当に美味しいものを作るのがイタリアのマンマの料理”

私もいつも言っている、イタリア料理のコア。

そう、そうなのですけれど、実は「手に入る食材」というのが、今と大きく違った過去がありました。

しかしながら、明るい話で言うと、ポスト資本主義に突入している現在、そういった経済的豊かさは横にも縦にも広がっているので、やっぱり日常の食材で困る人は少なくなっているし(横)、求めればより良い食材も手に入るようになっているのです(縦)。
だから、これからの時代は、水を得た魚、食材を得たマンマの料理はより強固になりつつあると思います。

問いに戻ると、イタリア家庭料理をちょっとした歴史的な視点で見ても、経済的な余裕が、確かに料理を楽しくしていますよね。

思い当たる節②クックパッドのランチタイム

2つ目。

私自身がクックパッドで働いていた時のこと。

当時は、恵比寿ガーデンプレイスのオフィスの真ん中に大きなキッチンがあり、昼休みになると食材が運ばれてきて、社員たちは自由に料理をしてランチを作ってよかったのです。

(私がこの時間をどれだけ愛していたことか、、!当時一緒に働いていた皆さんはご存知だと思います。2年目になると、自分のパスタマシンやピッツァ板まで持ち込んで、昼休みに本気になって料理していましたから。今から思えば、こんな社会人2年目がどこにいるんだって感じですけれど。笑)

時間制限はあるものの(1時間)、その日運ばれてくる野菜、冷蔵庫の肉、魚、棚の豆、調味料、細かく食材費を気にすることなく、あらゆる食材を自由に使ってよかったのですね。

(と、書いていて今思い出したのですが、一応一人〇〇円以内を目指しましょう、みたいなルールはあったと思います。まぁ皆さんもあまり気にしていなかったように思いますが。)

新卒の同期や、海外事業部の先輩たちと、あるいは違う部署のお姉様お兄様たちとワイワイ作っては食べていましたね。

そりゃ楽しいわ〜。

なので、個人的な経験からしても、食材費の呪縛から離れることは、料理を大いに楽しくしていましたね。

問いへの回答、その先に

それでは、問いに戻ります。

「お金に余裕があると料理が楽しくなるのか」

冷酷だけど、真だと思います。上記で見た通り。

もちろん、これは十分条件であって必要十分条件でない。

料理が楽しくなるためには、お金以外にも必要なことがありますね。

でも、ここからが大事なこと。問いのビヨンド、最後に1つだけ言いたいこと。

料理を楽しむためには、お金持ちである必要はない。

料理は、The more, the betterな世界ではないのです。

これこそが、マンマから学ぶこと。

お肉が美味しいからといって肉ばかり入れすぎたら美味しくない。1番美味しい高級部位だけ使っても美味しくならない。

加減を知り、手に入る食材で美味しいものを作る知恵と経験。
それから、愛。

これこそが、何にも取って代われないコア・バリューであり、減価償却しないアセットであり、最強のコンピテンシーです。

だから、料理というのは、基本的には民主的な世界だと思っています。

スタートラインに立てば、意志と努力次第で、みんな平等に料理を楽しむことができますから。

話がやや壮大になってしまいましたが、「お金に余裕があると料理が楽しくなる」この冷酷な説は真だと思いますか?

皆様のお話もお聞かせください。

先日のオンライン料理教室で紹介したピアチェンツァの郷土料理。
古くなったパンと水で作った手打ちパスタに、豆の煮込みを合わせた料理。
材料はポーヴェラですが、最高に美味しい一品です。

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