イタリア男たちの料理事情と、沢山料理を作ってもらって気付いた料理の徒然(#料理の文化人類学)
9月初めに別れてから、色んな男とデートをした。
この男Dと付き合った期間は1年弱だったけど、ずっと一緒にいて、物理的にも精神的にもあらゆることを共有してきて、イタリアに残って博士課程に進むことやボローニャに家を買うことなど、人生の大事な決断をする時に一緒にいた人だったし、おそらく愛した人に愛される幸せをはじめて知った恋だったから(それまでの彼氏ごめん)、別れがもう本当にこたえた。1週間くらい、何もしていない時にふと涙が溢れて、私でもこんなふうになるんだと自分自身に驚くくらい心が弱まって、もう2度と立ち直れないかと思ったけれど、まぁ1ヶ月で立ち直った。
それで、とにかく、別れてから、色んな男とデートをした。
シングルだと言ったわけではないのに、私の醸し出すオーラがオープンなのか、自分の目がオープンになったのか、とにかくモテた。自分で言うのもちゃんちゃらおかしいが、事実、出会う人出会う人にデートを申し込まれ、デートすれば好きだと言われ、勢いよくモテた。
おかげで、歯の浮くイタリア男の言葉も沢山浴びて、話のネタも沢山出来て、自分のタイプを見極めるスキルも上がったし、何より、傷が癒えたのも否めない。竹内まりやさんの「元気を出して」の「彼だけが男じゃないことに気付いて」が、ようやく現実になってきた。なんだ、こんなに良い男いっぱいいるじゃん。
前置きが長くなった。沢山デートしたことの説明なだけのはずだったのに。
それで、イタリアでは、日本みたいに外食が普通ではなく、家で食べることが多いから、自然、料理をしてもらうことが沢山あった。
元彼Dも料理を沢山してくれたけど(タコスは6時間かけて肉を煮込んでいたし、シシケバブやトルティーヤやら色々面白いもの作ってた。私も海の幸のリゾットはどちらが美味しく作れるか勝負もしたものだ)、とにかくN=1だった。
で、私の作戦は、デートに誘ってくる男たちに今日のデート何する?という時に、「ねね、一番得意な料理作って〜」とお願いするのだ。
抜き打ちテストだから、材料も全てあるわけでもなく、練習も出来ない。普段から料理してる人や料理が好きな人は、じゃあこれ作ろうってなったらきちんと作るけど、そうではない男たちの「え、下手くそ〜〜!」って料理も沢山あった。笑
サンプルNが沢山になった今、思うことがある。それを徒然なるままに。
ちなみに、サンプルは28−33くらいのボローニャ在住の男で、職業は勤め人、医者、起業家やら様々、所得水準は平均より高く、割と良い生活をしている。
あ、あと、私の厳しい顔フィルターを通過、というセレクション・バイアスもあった。
①イタリア人はみんな料理が得意なわけではない
もう、思い出しても「ったく」って料理が沢山ある。
この子は料理が好きじゃないんだな、と思う人の料理。
たとえば、31歳歯科医(ふにゃふにゃ力抜けてるけど顔はカッコ良い。性格真逆なのになぜか仲良し。我がマンマの町アルタムーラ出身でボローニャ在住だからよく遊ぶ)が作ったカルボナーラ。
「明後日出直してきて下さいー」って感じよ〜もう!
私が作っていったティラミスが主食になった。笑
それから、下記はかなり笑える。
たまに自分の料理を送ってくる男たち。
「俺の十八番!」
※Cavallo di battagliaとは「戦の馬」、つまりオハコ。
え、これカルボナーラ?卵めっちゃ固まってるじゃーん。
「君が来なくてよかった。俺には練習が必要だ」
wwwww
面白すぎでしょ。声出して笑ったわ。
しかも、なぜ英語ww
センス100%だけど、料理が、、チャオ。
そんなこんなで、最終的に今付き合っているアレッサンドロ。
かっこ良くて、料理が上手♡(はい、のろけーーーー)
休日には、我が家で手打ちパスタを打って、ポルチーニとエビのタリアテッレを作ってくれる。
というのは言い過ぎで、生地を捏ねたのは私だし、アレが作るのと同じくらい私も料理することになるし、私が姫の日もあれば、彼が王様の時もある。
でも、やっぱアレぴっぴのカルボナーラは凄かったんだなって思う。
まずは弱火でじっくりグアンチャーレを自らの脂の中で煮るように炒めて、卵黄とペコリーノで濃厚なソースを。
これがまた、スローだけど、しっかりした作り方で丁寧に作るの。
キッチンで料理する背中は逞しかった。
食卓に上がったカルボナーラは絶品だった。
イタリア男、幅広し。料理の腕もピンキリです。
②イタリア男の得意料理はなぜかカルボナーラ
Nが多数になって、もう1つ面白い事実に気づいた。
なぜか得意料理を聞くと、92%の確率で「カルボナーラ」という答えが返ってくる。
なぜ??
「カルボナーラを作れること」というのはある種の関門なのだろうか?
卵の凝固温度を理解して完璧なクリーミーさを追求することが癖になるのだろうか?
日本でいう「お父さんのラーメン」的な趣味的要素があるのだろうか?
分からない。
が、1つの答えは「好きだから」かな。
仲良しのシェフで、普段は仕事でボローニャのトップレストランでトルテリーニを作っている友人も、「プライベートで作る料理で得意なのはカルボナーラ」と言ってた。
なぜならば、好きなものを食べたいから、と。なるほどね。
そんなシェフのカルボナーラは、やはり完璧に美味しかった。
しかし、誠に残念ながら、私はカルボナーラが特に好きなわけではない。。涙
みんなー、海の幸のスパゲティを得意になって♡
あ、でもこのフィールドワークは一時中止か。
料理を作ってもらって気付いたこと
上記のPDCAを繰り返した上で、料理を作ってもらうことについて思うことがある。それを徒然なるままに。
まず、料理を作ってもらうと、この子が食に対して、人や世界に対してどう向き合ってるか、どう育ってきたか、一発で分かる。
頑張って作ったのに卵液がシャバシャバになったカルボナーラに悔しがって、次回への反省を述べる子をみると、あぁこの子は食べるのが好きなのだな、好奇心・向上心が強いのだなと思うし、
これ人に食べさせるの?って料理を普通に食べる子をみると、あぁこの子はこういうふうに育ったのかな、人との関わりが少ないのかなと仮説が浮かぶ。
別に良い悪いじゃなくて、料理以外にもいっぱい良いところ悪いところあるから、その人自体をジャッジする意味はないけれど。
でも、食は社会のあらゆる要素を含む複合的なものだから、食を窓にすると、人の色んなことが見えてくる。あとは相性の問題。
ちょうどこの時期日本から遊びに来ていた幼馴染を、デートした子たちに招かれるままに連れて行っていたら、友人は天真爛漫だから「イタリア人の男の子はみんな料理うまいんだね!」って言ってたのだけど、いやいや、私の問題よ。笑 料理が好きな子と交際してるだけ。笑
でも、1つだけ言いたい、すごく大事な気づき。
重要なのは、上手い・下手ではないということ。
料理は、下手でも良い。
でも、一生懸命作ったところに物語のカケラがある。人を育て、人を動かす力がある。
「カケラ」というのは、1回で何かが起こるわけではなくて、その積み重ねだから。
うまく作れない日も、材料が足りない日もあって、それはその日の料理を笑って食べれば良くて、そういう日が積み重なることが大きな意味を持つ。
料理してもらうのって、言葉では言えない幸せな満足感が広がりますよね。
お腹を空かせて帰ってきた時に、母が台所でエプロンして立ってるのを見て育ってきたことは、きっと今の私を作っていると思うし、
一生懸命フライパンの前に立つアレぴっぴをみると大切にしてもらってるな、というのかな、まあ、まず彼自分が美味しいもの食べたいからなのでしょうけれども、でも、やっぱり嬉しいもの。
レストランに連れて行ってもらうのとは違う、ケアしてもらってるというか、安心感がある。
そう考えると、料理は、意思なのだと思う。
いくらでも、楽に、安く、美味しいものが手に入る時代で、それでも料理をするのは、人を大切にする意志なのだ。
だから、下手でも良いから、簡単なレシピで良いから、スーパーで手に入る食材で良いのだから、フライパンを握ってみましょう。
きっと大切な人には伝わると思います。
料理を作ってもらうのは、とっても、とーーっても嬉しいものですよ。
P.s. 料理を作ってくれる愉快なみんなへ
みんな、ありがとう。
これからも沢山美味しいもの作って、沢山食卓を囲んで、沢山笑おうね。
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