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たしかな 「思いやり」 に救われた話


 思いやりって「やって」こそだよなぁ、とお風呂に入りながらふと頭に浮かんだので、今回は人を思い "やる" ことで自分が救われた体験を書こうと思います。



「同情するなら金をくれ」

 だいぶ前に某ドラマでこのセリフが話題となり、当時の流行語大賞までかっさらったフレーズ。

この一言は極端すぎる面がある分、結局はお金の話なの? とか、気持ちも大事でしょ? みたいな両論はあるだろうけれど、でも本質はそこだよなぁと思ったので自分の体験を元に考えを言葉にしてみます。



応援してるよ! って言って何もしてくれない人

 や、別に何かをして欲しいわけじゃない。

でも「あなたのことすごく応援してるよ!」って言ってくれていたのに結局は何も行動を取ってくれない人には素直にこう思う。

じゃあなんで言ったの? 

その場の社交辞令とか、その瞬間だけはその言葉が応援となれ! みたいな意図も込めつつ言ってくれたのかも知れないし、もしかしたらその瞬間には本当にそう思ったのかもしれない。

でもいざヘルプミー! と大声を出した時にはもうそこには居ない。

どこに行ってしまったの?



 ちゃんと 思い「やって」くれる人

 上京して新社会人生活がスタートした頃、今までの学生生活とは打って変わって早朝から深夜までの週6勤務が続く日々に、私はそろそろ充電が切れそうだった。

今から振り返って冷静に考えてみると、充電が切れそうだったというよりかは、自分が今どのぐらい疲れているのか、あとどれぐらい充電が残っているのか、はたまた充電切れなのかを感じられない状態だったのかも知れない。充電の残りはあと一本線、もしくは斜線が入ったバッテリー切れの赤い点滅だったのかも。


とにかく、もうすぐそこの6時間後に迫り来る次の出勤に向けて、生命維持の最低ラインを保つ衣食住に必死でそれ以外のことを考える余裕がなかった。パソコンに例えると、メモリがいっぱいいっぱいでこれ以上タブが開けないみたいな、そんな感じ。

そんな心理や状態をありのままに呟いていた場所があった。

それは高校生の時からやっていたTwitterのリア垢だ。


大学院生の時はほとんど呟いていなかったのに、社会人になってからというものの、気軽に喋れる相手がいない一人暮らしということも相まってか、会社の同期や家族にすら言えないことまでもをありのままに呟くようになっていた。


Twitterに呟いた瞬間に自分ではもう内容を忘れていて、誰が見てどう思うだろうかなんてことまでもを気にする思考が追いついていなかったから、本当にありのままの心情を壁に向かって吐くように呟いていた。


 するとある日、大学で最初に出来た友だちからLINEがきた。

「すごい忙しそうだけど、ちょっとで良いからZoomで久しぶりに話さない?」

もう6年目の付き合いになる友人は地元で就職していた。だから、東京で一人働く私と顔を見て話せる数少ない方法を考えて提案してきてくれたのだ。

実はこれに私はとても救われた。



思い「やり」を受け取って癒された気持ち

 その友人も仕事で忙しく色んな悩みがあって大変ななか、休日の貴重な時間を割いて私とZoomを繋いでくれた。

「思ってたよりも綺麗なワンルームだね」と言ってくれるその画面の向こうに見える友人の実家の雰囲気、学生時代から知る友人の顔。久しぶりの親しい会話。その安心感が私の心にスペースを、少しのゆとりを作ってくれた。

会社での色んな理不尽な話も、その子に話すからにはと気合を入れて、笑い話に変換していっぱい話してお互いにいっぱい笑った。その瞬間は、何時間後には出勤だみたいな考えも自然と頭から消えていた。

友人は自身の近況を手短に話すと「そっちはなんか大変そうだね」と、こっちが話をしやすいようにとまるで誘導するかのように、ずっと話を聞いてくれた。私が話す内容に対して、ときには共感して、ときには一緒に「それは理不尽すぎ」と怒ってくれた。

「じゃあまた、バイバイ」とZoomを閉じてから、はなから私の話だけを聞くつもりだったんだと実感して、相手がしてくれた思い「やり」の優しさに気持ちが救われた。


自分のことを思って、こうやって実際に行動に移して助けてくれている。それを実際に感じることで心が軽くなった。

すると不思議なことに、その救いはそれだけに留まらず、翌日の出勤からは理不尽な会社での出来事もこれをどうやったら笑い話に転換できるだろうかと、あたかもネタ探しの日々のようになった。

朝から頭上を飛び交う上司たちの怒号、それを耳にしながらも「この話をしたら『何それ、ひどすぎ!笑』と笑ってくれるかな」なんて頭の片隅で考えていたら、全身に力が入って萎縮しながら仕事をしていたのが少しマシになった。

やっぱりたしかに私は、思い「やり」に救われていたのだ。



思い"やり" は 「やって」 こそ

 「あなたのこと応援しているよ!」という口先だけの言葉では「思いやり」にはならないと思う。
厳密に言うとその瞬間だけは一瞬嬉しく感じる程度だろうか。こう考えてしまう私は冷たいだろうか。

でも、振り返ってみて実際に助けられた救われたなと感じるのは、やっぱり「思い」を実際の行動という段階にまで引き上げて「思いやり」を表して届けてくれた人たちの顔が思い浮かぶのは事実だ。


高校生時代、LINEだと伝わりにくいからと手紙を書いて渡してくれた人(これも「言葉」だけという点では変わりないけれど、言葉を文字で伝えるという行動をしてくれていた)

大学時代、ゼミのクリスマスプレゼント交換会で必要なプレゼントを私が忘れてしまってどうしようと焦っていたら、今から一緒に買いに行こうと、交換会に遅刻してまで一緒に付き添ってくれた人。

大学院時代、コテンパンに教授から怒られて論文の再構成を命じられて、私がとても落ち込んでいると察したのか「これ美味しいから」とさり気なく私の大好きなチョコを渡してくれた人。


特別大きなことではなくても、その何気ない思い「やり」が私をその時々で確かに救ってくれている。

やっぱり「思う」だけではなく、どれもこれも行動という段階にまで引き上げて表現してくれないと、こちらは受け取りづらい、実感しにくい。思っているだけではやはり不十分な時があるのだ。それはこちらがする場合でも、相手からしてもらう場合でも。

自分はこういう風に考えて思っているから、私が「思いやる」とき、伝わったらいいなと思いながら行動で示すようにしている。


そんな思いやりの本当の意味に考えを巡らせた夜です。

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