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テレビを見るのが辛い、いろいろ考えてしまう繊細さん


 大人になるにつれて、テレビを見るのが辛くなりました。

今から考えると、小さい頃はなんで特になにも思わず見れていたのだろうと思うほどです。



テレビのガチャガチャ感が苦手

 まず、テレビのガチャガチャした感じの雰囲気と音が苦手です。

YouTubeとかでも広告は流れるけれど、テレビで流れているCMをみると特に年々、なんとか興味を引かせるようにと過剰な音だったり、演出になっているなと感じます。

録画やアーカイブ視聴が普通になってしまったいま、広告はスキップされがち。


そんななかでテレビの収入源である広告をいかに見せるか、効果的なCMにするかが大事なのは分かるけれど、五感の全てが奪われてしまうような広告の演出が苦手です。

大人になるにつれて、耐えれないほどまでにしんどく感じてしまうことが多くなりました。


時代の変化につれて過激になっていっているのかな、なんて思ってふとYouTubeでバブル期のCM集みたいなものを見てみたら、もっとゆっくりとした穏やかなBGMに音声や映像もどこか余裕があって、素朴な良さがありました。



個人的にバブル時代のコカ・コーラのCMが好きで。

なんだかとにかく明るくて(それもコカ・コーラのイメージ戦略と知っているけれど)、夏の炎天下でゴクゴク! みたいな爽やかな雰囲気と、どこかすこし気持ちが明るくなれるCMっていいなと改めて思ったりしました。


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バラエティ番組の緊張感が耐えられない

 バラエティ番組を見ていると、小さい頃は特に難しいことなんか考えずにアハハ! とお腹を抱えて笑えていたのに、大人になるとそれぞれの芸人さんの背景まで想像してしまったりして、しんどく感じることってありませんか。


「いまのところのコメント、帰ってから反省したりするのかな」
「ひな壇のこの人、さっき場の期待から無理して過激な発言をしたから、それ以降ちょっと考えて落ち込んでるな」
「この人とこの人ってなんかピリピリしてて、ベテランの芸人が若手芸人に無理強いさせているみたいで嫌だな」

とか。


バラエティ番組に出演している人たちのウラの心境みたいなものを考えては、勝手に汲み取ってしまって、とてもしんどい。


※共感性羞恥心みたいなものでしょうか。


 ※共感性羞恥心とは、他人が恥をかいたり、非難されたりするなど、恥ずかしいと思う行動をしているのを見た時に、まるで自分のことのように恥ずかしくなってしまう心理を言います。読み方は「きょうかんせいしゅうちしん」です。

引用元:webページ、マイナビウーマン「共感性羞恥心」とは? から一部引用



例えばの極論ですが、司会者がひな壇の芸人にコメントを求めたり、上手な返しを期待して話題を振ったりすると、自分が仕事の会議で進行役の人から振られた時のように身構えてしまう。
テレビの向こう側とこちら側で、本来であれば関係はないのに。


「大丈夫かな、この人ちゃんとうまくコメント返せるかな」なんて、とっても余計なことまで考えてしまう。


そんなとき、その人がコメントを言ってドッカーン! と収録で笑いが起こって一番上の立場の芸人さんも笑っていたら、どこかホッとする。
そしてテレビを見ながらなぜか硬直していた自分に気が付く、みたいなことがよくあります。


逆にもしそのコメントでシーンとなってしまったら、なんだか「うわ……これ帰り道に落ち込むだろうな……」なんて勝手に考えて、テレビを見ているだけの無関係な自分までもがちょっとダメージを受けていたりする。


こんなふうに繊細に感じ取ってしまって、バラエティ番組を単純にアハハ! なんて見れなくなってしまいました。




自分の年齢が上がって経験を重ねるうちに共感が強くなる

 自分がいろんな経験を重ねると、共感がより働きやすくなったりしませんか。

それこそ芸人さんの発言で場が固まったときは、会議やプレゼンなどで自分の発言後にシーンとなってしまった時の、背中にうっすら汗をかいて会議が終わった後でも一人反省会を開いてしまうような、そんな感覚を思い出してしまう。


考えすぎだよ、とか、生きるのつらそう(笑) とか言われても、しょーがないじゃん考えちゃうんだから、と思います。


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テレビを見ながらご飯を食べると、味が半分ぐらいしか感じられない

 これまた極端な例だと思われてしまうかもしれませんが、私の場合はそうです。
だから食事中は絶対にテレビもつけないし、ながら食べも絶対にしない。
というか出来ないし、しようとも思いません。


ただ、実家でご飯を食べるとき、ジェネレーションギャップ? なのか絶対にテレビがついていました。しかも時間帯によっては、それがニュース、朝ドラ、バラエティ、ワイドショー、スポーツ、ドキュメンタリーなどさまざま。


特にニュースとかワイドショー、バラエティ、この辺りが辛い。


暗いニュースを見ながら食べるご飯は本当に辛い。
それだったらもう朝ごはん抜いてもいいや、と思ってしまうぐらいにできません。


だって人間の摂理みたいな観点から考えたとしても、『今日の感染者数は最多の○○人です、そのうち重症者は……』とか、人が殺された残虐なニュースなどを聞きながら(もしくは事故現場を見ながら)ご飯なんて食べたくないじゃない……。


家族には申し訳ないけれど、テレビを見ながらご飯を食べると美味しく感じられない(言い換えると、一番美味しい状態でご飯を食べたいから)と伝えて、食事の際は必ずテレビを消してもらうようにしてもらいました。

最初は、なんで? テレビ嫌いなの? なんて言われたけれど、今はちゃんと分かってもらえて協力してもらっています。




テレビのガチャガチャした感じが耐えられない

 もちろん番組にもよりますが、テレビの過度な笑い声や激しい効果音、出演者同士の過激な発言や緊張感に耐えられない。だからテレビをほとんど見なくなりました。


穏やかな雰囲気の番組、たとえばそれこそ『世界ふれあい街あるき』『岩合光昭の世界ネコ歩き』『旅するフランス語』みたいな番組は、たま〜に見ます。

あとは情熱大陸系の密着モノとか。これもたま〜にだけど。


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そんなんじゃ世間の状況わからなくない? 世間知らずみたいになっちゃうよ? と言われることもあったけれど、ニュースは日々ちゃんと追っているし、文字や必要最低限の映像でちゃんと見ている。


なんなら受動的にテレビを見るんじゃなくて、自発的にニュースなどを追うようになってから、フェイクニュースに惑わされたりせず、ちゃんとした情報を詳細に知ることが増えた気がしています。




自分の好きなコンテンツばかり見ていたら偏る?

 たまに、自分の好き/興味のあるコンテンツばかりを追っていたら思考が偏っちゃうよ、みたいに言われることもあるのですが、そんなの普通にテレビを見ている人だって思考が偏っていることもある。


それに、媒体がテレビではないだけで、それ以外の媒体でいろんなものに日々触れている。むしろテレビを受動的に見ていたときよりも、それ以外の媒体を駆使して自発的に知ろうとしたことで得るメリットの方が多かったような気がします。


もちろん、人によって得意な媒体は違うので、私の場合はテレビは合わなかったというだけですが。


一度にバァーッと情報の洪水に溺れてしまうのが得意じゃないのかもしれません。




情報過多な場面が苦手

 これは余談ですが、穏やかなBGMや無音ではなく、ラジオのような店内放送が流れている本屋さんとかも苦手です。

好きな本を選ぼう、という楽しみで落ち着いた気持ちで来ているのに、
意識が拡散しちゃうというか、集中できなくてイライラするというか。

本のタイトルや文字が頭にうまく入ってこない感じ。


あとは銀行のATMも、お金の大切なやり取りをするから、ただでさえ集中したいのに「カードローンが今なら金利○○%です!!」という大量の貼り紙や、店内で「○○ちゃん、いまなら通帳をオンラインに切り替えた方がお得なんだって!!」と永遠に流れるCMの音声、そして極め付けには

「あなたの行なっている操作は振込詐欺じゃないですか?!
いま特に高齢者を狙った振込詐欺が急増中です!!
こんな電話がウンタラカンタラ、
これに当てはまった人はウンタラカンタラ……そんなあなたは


[振込詐欺だ](やり取りを「取り消し」)
[振込詐欺ではない](やり取りを「続行」)


ボタンもすべて色分けされていて、画面がガチャガチャしていて、

適当に流れでピッて押したら最初の画面に戻ってしまって

また最初から……(泣)

ってなることがあります。



これを母に話してみたら、
「ATMの近くに張り紙なんてあったっけ?」
みたいなレベルで全然共感してもらえなかったので、あぁ人ってひとりひとり同じ場面でも全然違うことを感じているんだなぁ、なんて呑気に思いました。




「繊細さん」に救われた人はとても多いと思う

 「繊細さん」という分かりやすい名称を世に広めた? 武田友紀 先生に個人的に感謝しています。

というのも、自分がこんなふうに何でもかんでも考えすぎたり、その場の空気とかを受け取りすぎたり、情報が一気に入ってきたりするのはおかしいのかな、とずっと思っていたから。


友だちとかに話しても「考えすぎだよ」の一言で片付けられてしまって、自分だけが考えすぎなのかぁ、と思いつつも解消されないモヤ〜ン感がいつもありました。




同じ場にいても受け取る情報量がたぶん違う

 よくある「繊細さん」への勘違いに、繊細さんってつまりは情報処理のスピードが遅いの? があると思います。


でもこれに対して個人的に思っているのが、「繊細さん」は多くの情報を一度に処理できないのではなく、一度に受け取れる情報量が人よりも何倍、もしかしたら何十倍も多いのではないかな、と思います。


だから「繊細さんじゃない人」と同じ場面にいても、その人よりもより多くの情報量を捉えている。


たとえば、意識の外にあるようなもの、視界に入っていない範囲までもの情報を一気に把握して捉えていることが多いように感じます。
(具体例:遠くの会話、匂い、体の感覚、光の量、看板の文字、相手の感情や表情の差異、いま通行人が自分たちの会話に耳を傾けて通過して行ったな、とか)



 これは私の場合ですが、とっても疲れやすいし、睡眠はすごく必要だし、頭がうるさくて、たまには感覚を遮断したくてノイズキャンセリングのイヤホンとか(でもこれはこれで電磁波? で耳が痛い)、お風呂も洞窟風呂のような照明で入ったり、といろんな自分なりの対処? が必要になってきます。


でもそんなふうに感覚が敏感だからこそ、人一倍、何かの物語の入り込めてその世界や背景を深く考えて想いを巡らせたり、自分が集中できる環境であればいくらでも集中できたり、と楽しいことも多いです。


ここまで書いてきて、またまたぁ最近はみんな「繊細さん」を簡単に名乗りたがるんだよね、みたいに思われてしまうのもなんだか嫌なので、私がどれだけ答えを求めて考え込んでいたか参考書籍の一部を書いておきます。



【HSP関連の参考書籍】

・『
「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本
 武田 友紀さん著

・『今日も明日も「いいこと」がみつかる「繊細さん」の幸せリスト
 武田 友紀さん著

・『敏感すぎる私の活かし方 高感度から才能を引き出す発想術
 エレイン・N・アーロン著
(「HSP」という概念を提唱した著本人アーロン博士の本です)

・『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』イルセ・サン著

・『「いつも誰かに振り回される」が一瞬で変わる方法』大嶋 信頼さん著

・『天才はみんな「鈍感」さん ありのままの私を大切にした偉人の話』ライフハックアニメーションさん著

etc...



HSPは個性だから、それを発揮できる環境を選べばいい

 以前の記事でも書きましたが「繊細さん」を変えることはやっぱりできない。
今まではずっと、どうにか変えなきゃ! と思っていたけれど、これも大切な個性だよねと最近では割り切っています。


 

 専門書などを読むと分かりますが、科学的な根拠もちゃんとあって、一定数はそういった「繊細さん」のように心配しすぎるような脳の構造を持った人、あるいは遠くの未来までもを俯瞰して一気に把握するような、そんな脳の部分が特に発達した人が一定数は存在するようになっているらしいです。


それこそ部族みたいな時代まで遡ると、危険な状況に直面する前に、危険が起こり得る要素を察知できる人がいないと部族が滅んでしまうから、というような理由で昔から「繊細さん」と呼ばれるようなことを考える人が一定数いたみたいです。


(たしかに、昨日と今日で微妙に木の枝の位置が変わっている、ってことは野生動物が通過したんだな、遠くの方でなにか微かな物音がする、みたいな察知能力は自然界ではとても大切だったんだろうな、と思います)


だから自分の個性を発揮できる環境を選ぶことが大切だなということを身をもって学びました。


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「繊細さんではない人」に悪い面も良い面もあるように、「繊細さん」にも悪い面と良い面が表裏一体だと思うから。


これからも私は、繊細すぎる自分とうまく付き合いながら生きていこうと思います。



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