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社会人2年目でようやく「わからない」ことを認められるようになった
主観バリバリでごめんなさい。
学校の先生に対して「わかりません」と言うことはタブーであった記憶がある。「自分で調べなさい」「自分の頭で考えていないからわからないのだ」などと叱咤激励(?)を受けるばかふぃであった。それらの言い分も理解はできるが、それにしても「わからない」ということが良くないことのような印象を受けざるを得ない。
いわば「わかりませんは許しません」という考えに執着せざるを得なかって。当然ながら、受験生が筆記試験で他人に答えを教えてもらうなどできない。それゆえ「自分で調べなさい」と言われれば「何となく」そうしていた。「自分の頭で考えなさい」と言われれば、やはり「何となく」そうしていた。
「自分の頭で考える」ことの問題点は、自分で調べるにしても考えるにしても、まるで見当違いな方向に進んでしまう可能性があることである。「何がわからないのかがわからない」「どこまでがわかっていてどこまでがわかっていないのかがわからない」状態であった。自己解決しようと問題集の解答を読む。困ったことに、全く理解できない。よくわかっていそうな人に質問をするのは「甘え」ではないかと思った。
「わからないことは自分で何とかしなければならない」と信じていただけに、他者との関わりにおいて、うまくなじめなかったことが多い。どうにかこうにか一人で学び続けることに慣れきってしまっていたのである。そのために、人間的な成長をいくらか犠牲にしたと思う。自分で問題を解決することに価値があると思っていたし、他人に頼ることはいけないことだと疑わなかった。
大学を卒業し、社会人になってから、これまでの「常識」が少しずつ揺らいだ。「わかりません」という状態が決して悪いことなどではなく、自分の中で認められるようになったのである。「わからないことをわからないままにしておくよりも、解決方法を一緒に考えてもらう方が余程効率的だし、人間関係を形成する上でプラスになる」という考えを持つようになった。
今までできなかったことがなぜできるようになったのか。魔法を使ったわけではない。新卒で入った会社を数ヶ月でやめ、藁にもすがる思いで2社目に入った。そこでは、幸運なことに、わからないことを(聞いていないことまで含めて)親切に粘り強く教えてくれた。共に働く人たち皆がそうしてくれた。他者と協働することにより、自分自身で全てを背負う必要がないと理解できた。
いかんせん、仕事を続けていると、変化に対応していかなければならないので、たえず「わかりません」が生まれる。わからないことを解決するという目的を果たすために質問をするということは、他者と協働しているという感覚を得て、人間関係をよりスムーズにしていく。一石二鳥である。そのスパイラルを通じて、人間社会は日々発展を遂げているといっても過言ではないだろう。
……我々の社会生活における問題解決は、人と協同しながら行われる。しかし、学校教育でのテストの場面を想像してほしい。他人と一緒に協同したことを評価することはほとんどない。
従来の学校教育が、現実社会とはかけ離れた世界であることを物語る一節である。実際、こうしたギャップがあるということにハッとさせられた。学校教育においても、社会において仕事をするということを見据えた教育活動が取り入れられている。その代表格の「学び合い」を提唱した上越教育大学の西川純教授による指摘である。
ともあれ、自分の未熟さを自覚し、驕らず、それでも少し肩の力を抜き、持ちつ持たれつの関係で生きよう(ふわっとしたことばかり言ってごめんなさい)。
※どうやら、同じようなことを考えている人もいるみたいである(以下のリンクを参照)。
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