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いぬ

 11月6日、夕方から急に雨が降ったその日、街にはおりたたみ傘のケース13個と、スマホが37台落とされた。スマホのうち20台は警察に届けられたが、おりたたみ傘のケースは一つも届けられなかった。

 私はその日、照明が少し暗めのバーのカウンターに座り、一人飲んでいた。暗い店内では、誰もがしっとり静かに酒を飲む。人は無意識に空間に同調するものなのだ。

 私はそこで「トルストイ」とか「ドストエフスキー」とかの、長いロシアの小説を読むのが好きだった。私にとって何処でどの小説を読むかは重要なことだった。その小説に合う場所というのは必ず存在する。そして少し暗めのこのバーは、まさにロシアの長い小説を読むのに適しているのだ。

 けれど、その日、その空間に同調しないものが現れた。いや、現れたという表現は適切ではない。そのものはもともとそこにいたのだが、その時、同調から外れたのだ。

「ぶざけてんのか! ハゲかてめえは!」

 穏やかではない言葉がバーに響く。しかもその声は女のものだった。
 バーにはいくつかプライベートルームがあり、声はそこから聞こえて来たようだった。

「はぁー! なに考えてんだよ。犬とか思ってるんじゃねえだろうな! 犬なんてねえからなハゲ!」

 女の暴言は続く。それを浴びせられている相手の声は全く聞こえない。どうやら女が一人でいきり立っているようである。それにしても「犬」がどうしたというのだろう? カップルでペットに何を飼うか話しあってる最中、女が犬の大嫌い、いや大の犬嫌いとも知らずに、男が犬を提案してしまったのだろうか。いや、それだけにしては、女は少々キレ過ぎではないのか?
 ペットに犬。いいではないか。むしろ私は最近、無性に犬を飼いたかった。友人の家にいた柴犬。私は一気にその魅力に取り憑かれた。あの愛嬌に満ちた顔。確かにアイツが家にいたら、毎日が楽しいではないか。

 数分後、プライベートルームから男が一人出て来た。

 やはりカップルか。私は思った。男はクールで高級そうなスーツを着ていた。背が高く。スマートだった。その顔は確認できなかったが、おそらくイケメンであろう。男はカードで会計を済ませて、そそくさと店を出ていった。
 
 それからしばらく、今度は女が部屋から出て来た。そしてなんと、そのままカウンターの私の席の隣に腰をおろしたのだ。私は反射的にチラッと女を見た。好奇心がそれを止めることができなかったのだ。
 女は美しかった。この女が先ほどの暴言を吐いたのか? にわかに信じられなかった。しかし、状況からこの女で間違いない。

「ソルティ・ドッグ 下さい」

なっ! 女の注文に、私は思わず吹き出しそうになった。犬はダメじゃなかったのか、この状況で一番頼んじゃいけないカクテルじゃないか。私は一人でつっこんでいた。今や「ドストエフスキー」の世界は完全に消え去っていた。

 バーテンダーは素早くカクテルを作り、彼女の前に差し出す。

「つまらない男だったわ」

女はボヤいた。

「お気に召しませんでしたか」

「ダメね。結局今回も犬男(いぬおとこ)だったわ」

 女とバーテンはどうやら顔なじみであるようだった。空気を壊した女をとがめることなく、二人は楽しそうに語らっている。それにしても「犬男」とは何なのだろうか。犬が好きな男。そういう事なのだろうか?

「あっ、私最近、犬を飼い始めたの。見て見て」
 女がそういってスマートフォンをいじりだす。

 なっ! 私は絶句する。犬を飼う事で揉めていたんじゃないのか!「犬はねぇ」って言ってたじゃないか。私は再び心の中でつっこんだ。

「可愛い柴犬ですね」

 そう答えるバーデンダーの声に私は完全にノックアウトされる。女は柴犬を飼い始めたのか。ならばもう、迷うことはない。「俺と暮らそう」私はそう叫びたかった。彼女との暮らしわるくないではないか。

 彼女がおかわりに『ブルドッグ』を注文したところで、私は意を決して彼女に声をかけた。

「すみません。どうしても気になったので教えて下さい。犬男って何ですか?」

「ああ、犬男。 ワンチャンを狙ってくる 下心満点の男ってこと」


(おしまい)


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