バイセクシャルが向精神薬を飲んでノンケになった話①

 僕はバイセクシャルを自認していた.バイであることに気がついたのは19歳の時.大学1年生のときだった.

 友達のことを好きになったとか,男性の裸体にドキドキしたとかベタな気づきエピソードはなく,ゲイビデオを見て自慰行為できたことがきっかけだった.興味本位で見たビデオの中でのあれこれに興奮している自分がいた.風俗で女王様にお尻を開発され,それからお尻を自ら開発し始め,お尻で気持ちよくなることを学び,男性経験も積んでいった.本気で好きになった男の子もいたし,告白されたりもした.でもそれらは,リアルな関係ではなく,掲示板等で出会ったその場限りの関係+αなものでしかなかった.複数回会うことは稀で,一度限りの関係で終わるような,性行為を媒介とした関係でしかない,いや,関係とも呼べないものも多かった.

 そんな状態の人間をバイセクシャルとは呼べないと思う方もいるかもしれないけど,僕のセクシャリティはバイだった.自認している性傾向をセクシャリティというんだから,そこに誤解があったとしても紛れもない,僕はバイセクシャルだったんだ.客観的事実よりも,主観的事実を優先して判断して欲しい.なんでこんなめんどくさいことを前置きしなければならないかというと,ある知人にバイセクシャルであることを説明した際,「性癖バイセクシャル」と言われたことがあり,客観的事実ではあるかもしれないが,主観的事実はそうではなかった.もちろん男性との性行為は好きだったが,それだけではないと信じていたからだ.また,性行為ができれば誰でもいいわけではなく,タイプもある.とにもかくにも,僕は他人から適当なレッテルを貼られたまま読み進められることに耐えられないので,ここではっきりしたかったのだ.僕はただのバイセクシャルであった.ここから先を読み進めるにあたり,それを認めていただきたい.

 思い起こしてみれば,高校生の時にゲイのおじさんにナンパされたことがある.ナンパというか,抱きつかれたというか...公園で待ち合わせをしていたとき,おじさんに抱きつかれて「男いける?」と耳元で囁かれた.その当時は「びっくりした!」と思うぐらいの経験だったが,今思い起こしてみれば,それは一種の「トラウマ」だったのかもしれない.

 僕たちは生きていて少なからず「参照点」的経験をする.ある過去の経験を現在進行形的な経験と比較対象的に引っ張り出してきて,文字通り過去の経験を「参照点」とする.僕はゲイのおじさんにナンパされた経験を「参照点」として僕の無意識にずっとおいておいたんだと思う.びっくりしたと同時に僕の内面では少なからず「僕の存在を他者に軽視された」というイメージ(感情や感覚といってもいいかもしれないが,映像的な残像とそれに付随した感情が同時に沸き起こってくるので,イメージという言葉を使うことにする)が残り,そのイメージは僕が男性と性行為をする際に幾度となく呼び起こされていた,いや,性行為の際に呼び起こされるという表現は正しくない.というのも,こういう場合,イメージは行為の結果として呼び起こされるわけではなく,原因として呼び起こされる.つまり,順序が逆になるのだと思う.あるイメージが呼び起こされた時,そのイメージを引き起こすと予期できる行為を人は求めるのだ.それを「トラウマ」ということもできるだろう.「僕の存在を他者に軽視された」というイメージが呼び起こされるような別の体験をしたとき,男性との性行為を求めていた.思い返すとイメージと男性との性行為はリンクしていて,一種の「自称行為」と見ることもできると思う程度だった.僕はある種の体験をすると必ずといっていいほど男性を求めていたのだ.ともあれ,僕がゲイのおじさんにナンパされた経験は「トラウマ」的「参照点」として19歳以後の僕の性体験に影響を与えることになる.

 全盛期でいうと1週間に1人から2人ぐらい.少なくとも1ヶ月で1人から2人とは性行為をしていた.それが原因で彼女(現在の妻)との関係がおかしくなったり,私生活に支障をきたすようになったりした.その意味では,性依存症的な側面も持っていたのかもしれない.ただ,それらは全て精神の平穏を保つための自己防衛的な行為であったと自己弁護したい.

 男性との性行為は自分の精神の平穏を保つために,あるいは,「トラウマ」体験からくる要請によって僕の習慣となっていた.僕は男性との性行為をした後,少し自己嫌悪に陥り,しかし,確実に精神の安定を取り戻していた.僕たちにはこういう行為は必要なのかもしれない.自分は確実に傷付いてはいるが,その傷がその経験からくる別の何かから目を背けさせてくれる.他人はそんな僕を見て「異常だ」「精神を病んでいる」「病院に行ったほうがいいのではないか」と言うかもしれない.しかし,その異常さが常態化し,かつ,その行為によって僕の精神は安定するのであれば,それはまた吉.「必要なこと」なのだと思う.それは向精神薬を飲んでいる今でもそう思う.自らを傷つける権利さえ僕たちには残されていないとするならば,無菌化されたこの社会に僕たちが真に解放される無法地帯は存在するのだとうか,と考えたくもなる.少し話がそれてしまったので,次回以降僕がなぜ精神科にかかり,向精神薬を処方されるに至ったのかを具体的に書いていきたい.


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