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僕は高校生のとき、男にレイプされた

僕は高校生のとき、男にレイプされた。
相手はおじさん。

肌がザラザラしてた。
僕の唇を奪ったその口は、タバコの匂いがした。
僕を抱いたその腕は、加齢臭がした。

夏のある日、ハッテン場と呼ばれる公園での出来事。
ハッテン場であることを知る由もない「異性愛者だった」高校生の僕は、彼女を待っていた。
あるおじさんは遠くから、舐めるように僕をみてた。

おじさんは僕を身勝手に扱った。
僕を見るその目は、目の焦点があっているようであってなかった。
どこか、僕ではない何かを見ているようだった。
あの顔は忘れない。

愛とか恋とか、そういうものが僕の心の中で錆び付いていく気がした。
世界には怨念と執着しかなくて、そんなものがこの世界を動かしている。
そう思い始めたのはその頃からだった。
おじさんが僕に対してむけていたのは怨念か、執着か。
僕がこの記事を書いているのも怨念か、執着か。

性犯罪に対しての厳罰化や性産業に従事する女性に対しての権利保護などの多くのトピックが議論されてきた。
それはいいことだし、今後も続けておくれ?
たださ、僕のこの気持ちはそんなことでは解消されないのだよ。

だいたいこの話をすると、みんな引くんだよね、おじさんに。
きもいとか、サイテーとかって言う。
と同時に、僕の感覚は死んでいく。

性犯罪を話題にするとき、そこには身体を蹂躙された誰かがいる。
その「身体で生じる現象」を問題にする人はほとんどいない。
有識者だって、それが「いかにいけないことか」を論じるわけだよ。
「ちげーわ。身体が死ぬんだよ。そういう感覚が問題なんだわ」って思う。

その経験があってから、僕は、男として男の人に恋をするようになった。
僕は「バイセクシャルになった」のね。
もともとその気があったとか、その経験で呼び起こされただけとか、そういうこと言うやつは僕が股裂の刑に処す。

ジェンダーとか、性差とか、LGBTQ+とか、そんなものはどうでもいい。
そうであることを望んでいる奴もいれば、恨んでる奴もいる。
そういうのは、グラデーションで〜…とかもいらない。
人それぞれだよね、っていう奴とは友達になれない。
そいつの今までの人生を全て恨む。

「ありのままのその人を受け入れよう!」とかいう標語とかもキモい。
ありのまま?受け入れる?ふざけんなよ。
ぶっ殺す。

ありのままとか、受け入れるとか、理性的に無害なメッセージを垂れ流すぐらいならさ、全部ぶっ壊して、残ったものを愛せばいいんじゃね?
相手の属性とか、分類とか、そんなものに縛られて、相手を直視しないならお前に人を愛する資格なんかねーわ。
真の孤独がそこにあるだろーよ、その孤独に溺れて死ね。
そんな奴の吐く息からは、あのおじさんと同じ匂いがする。

「あなたがどんな人間か、とか別に興味ねーわ。
あなたじゃなきゃダメっぽいし。
心の底から全てを曝け出して、頭おかしくなって狂人と化すかもしれないが、愛してる」
「まじ、あなたも?
同じ感覚感じてるっぽいから、全部投げ捨てて一緒になろ?」
的な世界がいい。
僕はそんな世界で生きたい。

身捨ての美学的なものの中に救いがあると信じたい。
身体に対しての防衛本能を捨てて飛び込んだ先に、真の身体性があるのではないか?と思う。

僕は多分、明日も誰かを愛してる。

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