見出し画像

#9 これからの正義の話をしよう② アファーマティブ・アクションを巡る論争

おはようございます、ちゅるぱんです。 今、我が家の窓の外は雪です。

さて、今日は、1月下旬から読んでいる『これからの正義の話をしよう』の続きです。前回のこの書籍についての投稿では、1-6章について自分なりにまとめてみたのですが、内容が深く難しいため全然まとまりきれていなかったので、7章からは、1章ずつまとめていきたいと思います。

第7章:アファーマティブ・アクションを巡る論争

本章は、アファーマティブ・アクションは正義なのか否か?について具体的な例とそれに対する反論が述べられています。

そもそも、アファーマティブ・アクション(Affirmative Action) とは何なのか?

英文の方がイメージしやすいので、英語で調べてみると、Cambridge Dictionaryによれば、

(UK)
If a government or an organization takes affirmative action, it gives preference to women, black people, or other groups that are often treated unfairly, when it is choosing people for a job.

(US)
efforts to make education and employment available to people who have traditionally been treated unfairly, for example because of their race or sex, by giving them some advantages over people who have traditionally been more powerful

主に、米国や欧州で使用される「積極的差別是正措置」のことをアファーマティブ・アクションと言います。国によっては、「ポジティブ・アクション」ともいうそうです。英文にも書いてある通り、人種や性別などで公平に扱われていない方々が公平に教育や就労の機会を得ることができるような差別是正の措置になります。

具体的な例を挙げると、貧困層の階層で入学した学生に対する生活援助や奨学金が一番分かりやすいところではないでしょうか。また、欧米などでは、政府機関や大学などへの入学において、黒人やヒスパニック系の人種など被差別人種とされる方の階層のために、採用基準を下げたり、全採用人員の中で最低の人数枠を制度上固定することが挙げられます。

これを読んで思ったのは、ここ数年話題の「女性管理職を増やそう」という動き、女性管理職を最低何人にするといった動きは、このアファーマティブ・アクションに通づるものになりますね。

前置きが長くなりましたが、今回の例は、

母子家庭で裕福でない家庭で育った白人女性が、テキサス大学ロースクールに出願し、入学試験の結果も83%と悪くなかったにも関わらず、不合格となり、それに対して「不当だ」「差別を受けた」と連邦裁判所に訴訟を起こした例です。

このテキサス大学ロースクールは、アファーマティブ・アクションの一環として、新入生の約15%をマイノリティの学生から選ぶことを目標にしており、マイノリティの受験生の合格基準を非マイノリティの受験生よりも低く設定していた。

ここでの問いは、
企業の雇用や大学の入学選考において、人種や民族を考慮するのは正義に反するか否か?

これに対して、自分自身の回答を言語化するならば、
「人種や民族を考慮することは正義」である。何故ならば、マイノリティというのは、無意識に差別をされやすく、意図的にマイノリティの枠を設けることは多様性を促し、多様性は、考え方の幅を広げ、民族間の融和を図るきっかけとなり、全体としてプラスの効果を社会にもたらすと考えるから。

この章では、この問いに対して、
・アファーマティブ・アクション支持者がアファーマティブ・アクションを支持する3つの理由は何か?(標準テストで生じる偏りの補正、過去の過ちの補償、多様性の促進)
・多様性の促進とはどういうことか?
・人種民族措置は権利を侵害するのか?
・大学は何のために存在するのか?
・分配の正義の拠り所を道徳的功績から切り離すことは可能か?

など、最初の問いを説明するために、様々な角度から問いをたて、説明をしていく。

今回の章でポイントと思うことは、

・多様性を促進することは、社会全体の共通善を目的としている。

アファーマティブ・アクション擁護論の核心をなす、根源的だが賛否の分かれる主張:
・入学許可は学生の美質や美徳に報いるための名誉ではない。
・テストで好成績をあげた学生も、振りな立場に置かれているマイノリティの学生も、入学を認められるべき道徳的価値を持っているわけではない。入学許可が正当化されるのは、それが大学の目指す社会的目的に資する限りに置いてであって、学生の美質や美徳に報いいるためではない。哲学者のドゥウォーキンは、「学生の美質や美徳に報いることが入学許可の正義ではない」と言っている。大学が使命を定義することによって初めて、合否を判断するための公正な方法が決まる。使命が評価すべき美質を定義するのであって、その逆ではない。

・大学入試におけるアファーマティブ・アクションが正義か否かは、その大学が掲げている使命が善であるかによる。何故ならば、大学の使命を定義し、選考方針を定めるのは大学自身であって、出願者ではない。学業成績であれ、運動能力であれ、どの資質を重視するかを決めるのは、大学である。
故に、大学の使命がそもそもどのようなものであるかということが大事になってくる。

この章で印象的だった事例と考え方は以下2点。

1)人種バランスの転換点という理論を用いた定員制限

ニューヨークのブルックリンにスターレット・シティ(Starrett City)という連邦政府の女性を受けたアメリカ最大の中間所得層向け公営住宅があり、この公営住宅は「異なる人種が共存するコミュニティ」を作るということを目標としていた。この目標を達成するために、過去の経験から導き出された「人種バランスの転換点」に関する理論を用いて、人種と民族のバランスを適正に保ち、安定したコミュニティを作ろうと考えた。そのため、コミュニティの人種と民族のバランスを取るために定員制限を設けた。ということ。過去の経験からすれば、白人の割合が転換点を下回ると「白人の流出」がおき、人種の統合が進まないという現象が起きていたらしい。そのため、白人を優遇する定員制限を設けたが、それは、人種的偏見ではなく、「コミュニティの人種的多様性を確保すること」が目的であった。確かに、全ての人種を同パーセンテージで入居させて、人種間の不和が起こり、誰かが差別をしたり不快な思いをするのであれば、ある程度優遇する人種もいつつ、適度なパーセンテージで他の民族や人種を入れて調和が図られ、共通善の役に立つならば、争いを防ぐことができ誰も偏見で傷つかないのであれば、それはそれでいいのかもしれない。と思った。そして、この例についても、「公営住宅への入居、大学への入学資格は個人が定義する美質に基づいて認められるものではなく、理事や管理者が定める使命によって、どの美質が高く評価されるかが決まる」ということ。

2)正義を道徳的功績から切り離すという考え

「職やチャンスを得るのは、それに値する道徳を持っている人だけだ」という考えがある。しかし、この考えは、「成功した人は、自分は成功する価値のある人間だ」「自分の成功は自分の美徳によるものだ」と考える傾向にあり、それは行きすぎると社会の連帯を妨げることのなりかねない。成功を自分の手柄と考えると、後れを取った人々に責任を感じなくなる。「金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもそれに値する」というのではなく、「自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるからだと言える人はいない。」我々がたまたま、自分の強みを高く評価してくれる社会に生きているのも、我々の手柄ではない。成功を決めるのは運であって、個人の美徳ではないという考え。本書でもあるように、この考えは、道徳的には魅力的だが、人々に不安を与え、実際に、正義に関する議論を功績を巡る論争から切り離すことは、政治的にも哲学的にも不可能な可能性が高い。

うむ。。。この本は、たくさんの問いがあるが、その答えは書いていない。歴史において、正義の議論に関して有名な哲学者がどのような側面でどのように考えているか、現代の哲学者はその課題についてどう考えているか、そしてその反論が述べられている。その中で、自分はどう考えるか、短絡的に、直感的に「こっちの判断が良さそう」と考えるのではなく、様々な論争があるという現実、過去を踏まえて、正義については考えることが良さそうだ。

相変わらず、この本を読むのが難しいが、こうした即決で「正しい」と判断できない事例をいろんな側面からみて考えることで、自分が意思決定者になった際に、迅速に判断するためのヒントにつながるのではないかと考えている。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?