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障害の診断を得る事が”レッテル貼り”である限り、インクルーシブな社会の実現は遠いんじゃないかな?

昨日のnote「奈落の底に突き落とすだけの「自閉症の診断」なんておかしいよね」を読んで下さったたくさんの方々から、診断後に支援を得られずに救ってもらえなかった苦しい胸の内のコメントをいただきました。うちの息子が幼かった頃に比べると、なんとなく診断後の状況はベターになってきているように感じていたんですが、やはりまだまだ診断からの支援への流れが十分に整っていない現状を知り、これからも声をあげ続けていかなきゃいけないな…と痛感しました。

診断が支援につながらない問題点には、昨日述べたように

子供に障害名を与える事が「医療&福祉&教育が連携した長期サポート」につながらなきゃ、それはただの拷問

でしかないこともそうなんですが、

診断によって「レッテル」を貼られ”障害のある子”としてメインストリームから外れることを余儀なくされてしまう(インクルーシブとは逆方向に向かってしまう)

といった問題もあると思うんですよね。

「障害の診断を得る」っていうのは、本来「差別・区別・排除」される為にあるものじゃないんですよね。

「診断」とは?

英語で診断の事を”Diagnosis”と言います。語源は「知識の全て」であり、診断は「この人は◯○障害です」というラベル付けをする為ではなく、「その人についての知識を完全な物により近づける為」すなわち障害の診断は『その人の全てを障害も含めて理解する為』だと思うんですよね。

障害の診断を得るという事が、決してその人自身を周囲から隔てる為に使われちゃいけないと思うし、その人のことを障害名で上書きしてその人の個性や人格を無いものとすることでもないんですよね。

例えば、診断を得た途端に「チャビ君」だったのが「アスペルガーの子」になるんじゃなく、「チャビ君にはアスペルガーという障害ゆえの特性がある」といった、障害名でその人自身を上書きしてしまうというよりは障害の特性をその人を理解する為に挿入する感じであってほしいなと思うんです。その考え方の元になっているのが、以前にnoteに書いた「Being(障害者)ではなくHaving(障害のある人)と捉える考え方」だと私は思うんですよね。その人を正しく理解する為に足りていなかったパズルのピースを見つけるという感じです。

例えば、発達障害の診断を得るという事は、今まで誰もが説明できなかった(=説明が不完全だった)発達障害のある子や自分自身の不可解だったり不可解だと周りから思われていた行動の説明ができやすくなる(=その人についての不完全だった知識をみつけだしその人自身を知る)ことだって思うんですよね。

障害名は「決めつけ」ではなく「手がかり」

そんな風に、せっかく「なぜ?」が解明されたんですから、障害名を何かができない理由づけや「障害があるから言っても無駄・教えても無駄」のような画一的な決めつけに使うより、出来る方法探しのツールといったその人を知ったり支援したりする為の「手がかり」として使った方が断然有効だと思うんですよね。

息子のクラスには、自閉症、ADHD、LD等の発達障害や、ダウン症、弱視、心臓疾患のある子などなど…色んな障害を抱えた子達が在籍しています。彼らにとって個別に支援を受ける支援級(リソースルーム)は「自分が出来る方法を探し出したり提供してくれる場所」なんですよね。だから、支援級に行く理由も(同じ障害を持っていたとしても)子供によって様々です。支援級は決して親学級で他のみんなと同じ様にできないからと追いやられた場所ではなく、自分に合った方法を練習し、自分らしく・自分のペースで学ぶ場なんですよね。

例えば心臓疾患のあるジョーダンは算数の時だけ支援級に行くんですけど、なぜだと思いますか?

ジョーダンは心臓疾患がある為に、大きい手術をして長期的に学校を休まなきゃいけない事が今まで何度かあったんですよね。でも、国語や社会といった科目ならある程度授業を抜けたとしてもそれ以降の授業になんとか復帰できても、算数は積み重ね(足し算を習っていない子は掛け算が出来ない等)の学習なので長期間休んでいた部分に戻ってジョーダンのペースで学習する必要があるんですよね。ジョーダンにとっては支援級とはそういう「自分のペースで学べる為」の場所でなんですよね。

「障害があるから支援級に所属」だと、障害名はただのレッテル貼りでしかないんですけど、ジョーダンの例の様に「その子にとってそうする事が最善だから」が本来の支援級や個別支援の意義であってほしいなと思うんですよね。

障害名っていうのは、障害があるからあれこれできないって「出来ない事の参照」に使われがちなんですけど、その人の中にある「なぜ?」や「どうすればいい?」の答えを導いてくれるヒント集なんだと思います。だからこそ診断を得た後に「その子にとってプラスとなる手がかりのヒント」を見つけ出し、専門家の方々がそのヒントを共有しその子が自分らしく生きる方法を提供してくれる道筋ができてくれればなぁって思うんですよね。

だから、

子供に障害名を与える事が「医療&福祉&教育が連携した長期サポート」につながらなきゃ、それはただの拷問

は、

子供に障害名を与える事が関わり方のヒントを見つけ出すきっかけになり、「医療&福祉&教育が連携した長期サポート」に活かせれば、障害の診断を得た子もその親御さんも苦しみから解放され生きやすさが見つかるはず

だし、

診断によって「レッテル」を貼られ”障害のある子”としてメインストリームから外れることを余儀なくされてしまう

のではなく、

診断を得た事が、その子にとってプラスとなる手がかりやヒントになり”メインストリーム”や”インクルーシブな社会”に自分らしく身を寄せられるきっかけになる

となってくれればなぁと思うわけなんです。

障害の診断を得る事が”レッテル貼り”である限り、それはその人を社会から押しのける方向に作用してしまうと思うんですが、

障害の診断を得る事が、その人の全てを障害も含めて理解する為のヒントとなれば、それはその人をインクルーシブな社会に引き込む方向に作用すると思うんですよね。

長々と話して来ましたが、昨日、今日と話した「診断」のことや、今まで話してきた発達障害の人のことを知ってもらいたい気持ちを込めて書いたnote達が、一人でも多くの人の「そうなんだぁ~」のきっかけになってくれればなぁと思います。

たくさんの方々に読んでいただいたり、支援方法を参考にしてもらえたらと思い記事を無料公開していますが、 今までもこれからも勉強を続ける私の為に「投げ銭」という形でご支援いただければすごく励みになります。 よろしくお願いします。