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【雑感】結局私たちの選択がこの世の中を作っている

まえおき

 The Real Anthony Fauci 人類を裏切った男の記事を書いている。予告編上巻編中巻編とアップし、下巻がまだであるが、もうしばらく待ってください。すみません。

 それからもしかしたらパンデミック条約反対デモの記事を期待しておられる方もいらっしゃるのかも。こちらもごめんなさい。近日中にアップする予定です。

 そうして、本記事について。本記事は、まだ自分でもよくわかっていないけど、とても大切な何かを自分の中から??掘り起こすためのラフスケッチという自分の中での位置付け、だ。だから、読み手のことを深く考えているわけではない。申し訳ありません。だけど…私の直感はファウチたちの悪事を支えているは実は私たちじゃないだろうか?と問うている。パンデミック条約や国際保健規則改定から透けて見えるWHOの強権的なあり方もね。いや…えっと。人のことを言うのは、よくないよね。少なくとも私の中のある心の中の傾向、もしかしたら現代人であれば、広くみなが持っているかもしれない、傾向。性質。そういったものと深く関係しているんじゃないだろうか?と自分自身に問うている。
 まだうまく表現できないので、そういうわけで、これはラフスケッチ。関係ありそうなことを網羅的に書いているだけ。そう書き散らしただけ、です。まだ。

 そう言うわけで、どうぞ、未完成のラフスケッチであること、どうぞご海容の上で…お読みください。本記事に関心を持ってくださってありがとうございます。

ファウチたちの悪事を支えているもの

 上述の本を読むと、なんでファウチやゲイツ(マイクロソフトのビル・ゲイツ)があれだけ悪どいことを何度も繰り返し、何度もバレてもいるのに、同工異曲どうこういきょくの悪事が続けられるのか、という疑問が浮上する。
 それにはもちろん巨大製薬企業やファウチやゲイツ自身の金儲け主義、マスコミの長いものには巻かれろ主義(それも裏を返せば拝金主義か)、一般の人々=話を聞く方の側(=こちら側が犠牲者にも、無関心による加害者にもなる)の無関心さ忘れやすさが、挙げられるだろう。

だが、それだけだろうか?


ショートカットを求める私たち

 コスパという単語はずいぶん前から聞いたことがあった。コストパフォーマンス。コストに見合う、あるいはそれ以上の性能や機能を発揮し、利便性などを高めてくれるもの。コストに見合う以上の価値を持つもの。費用対効果が高い、などと言う。タイパというものはごく最近聞いた。タイムパフォーマンス、だそうだ。時短を実現して、くれる何か。方法や商品やそういったもの、と理解していたが、正確には

「タイムパフォーマンス」とは、費やした時間と、それによって得られた効果や満足度の対比、すなわち「時間対効果」であり、「タイパ」とも略される。

日本最大級の人事ポータル HR Pro「タイムパフォーマンス(タイパ)」の意味とは

だそうだ。流行り言葉をググって引用を貼るようでは、浦島はなこさん丸出しだ。
 だがそんなにコスパやタイパを追求して本当にいいことあるんだろうか?すごく大袈裟に言えば「幸せになれるのだろうか?」。そんなことで得られる幸せは、儚い、束の間の、それこそやっすい幸せなのでは?と思う私は世の中の半分も知らないのかもしれない。タイパやコスパを追求するその先に本当のイノベーションも、この現代社会においてはあり得るのだろう。そういう社会全体が持つタイパやコスパへの圧力。1円、1秒、1ピコ秒にしのぎを削る世界。その技術や供給能力の向上やなんやかやの上に、お気楽にも乗っかって、私たちの、というか、私の生活は成り立っているわけだ。コスパやタイパをバカにしているようでは、天に唾吐くようなものなのだろう。だが一方で…。

本当の解決には知恵も時間も必要、それが本当の専門性

何度も繰り返されている古くて新しい問題

 以前の記事でもご紹介した、「一般社団法人ワクチン問題研究会」が開いた「新型コロナワクチン接種後症候群における筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)の症状改善に必要な療養指導に関する記者会見」。コロナワクチンによる副反応被害包括的に研究しているお医者さまを中心にした団体が副反応を軽くするビタミンなどの栄養について(ビタミンD、ビタミンB12、亜鉛が良いそうだ)、報告する記者会見を開いた。

 この中で、コッホペッテンコーファーの話が出てきた。コッホは言わずと知れた「細菌学の父」。ペッテンコーファーは「衛生学の父」だという。すっごく大雑把にいってしまうと、コッホ「単独原因」を追求してついに病気の原因は「細菌」であることを発見し、ペッテンコーファー「いやいや複合的な原因でしょ、衛生的な(キレイな)環境こそ大事」と「生活環境と病気発生との関係を重視して下水道整備の重要性を説き、下水道の普及と衛生行政の発展に多大な功績を収めた」のだそうだ(wikiより)。

 後からいろいろなことを知る私たちは「いやいや、どっちも大事でしょ?」となるが当時の当事者たちにとっては一大事なことだっただろう。

 福島教授は「今回ビタミンD、B12、亜鉛が不足であることがわかった。それはコロナウイルスやワクチンを製造したり投与することより、ずっと目の前の患者を楽にすることにつながる」。ウイルスを追及しワクチンを作るよりも「栄養が大事」だといっている。

日露戦争では2万人が犠牲に

 コッホペッテンコーファーの論争は、欧米の医学の輸入に躍起になっていた明治期の日本にも別な形で飛び火する。森林太郎(森鴎外)高木兼寛だ。森は陸軍の軍医でコッホの流れを汲む、あえて言えば原因追求型高木は海軍の軍医。イギリスに学び「臨床第一の英国医学と患者本位の医療」を持ち帰り広めようと尽力した。当時軍隊では脚気が一大問題だった。結果として日露戦争で、森は細菌説に基づき将兵に白米食を摂らせ、陸軍は25万人の脚気罹患者、2万人の脚気による死者を出した。対する高木は、脚気と食の状態を調査し、脚気と栄養に着目する。海軍は麦飯に変えたところ脚気の罹患者は事実上ゼロであった(詳しくは森鴎外wiki高木兼寛wiki参照のこと)。
 事実上の決着がつくのは、『ビタミン』が発見され脚気の原因がビタミンB1不足とわかってから。つまり細菌説の森も栄養状態説の高木も両方とも間違っていたのだ(高木はタンパク質の欠乏が原因だと思っていた)。当時の日本の医学会で、高木の説は相当叩かれたらしい。だが高木は「目の前の患者が楽になること」。「病気を防ぐこと」を優先した。そういう態度を持ち続けた。立派だよね。脚気を防いだ功績により爵位を得た、と上記の記者会見で福島教授が述べている。

今世紀に入って根絶された多くの病気はワクチンによるもの?

 これはThe Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(下)に記述されていたのだが…p46-p53。20世紀初めロックフェラーはさまざまな手段でスタンダードオイル社を設立し、世界で最も裕福な人々の仲間入りをする。そして石油精製で生じる副産物が医薬品原料に使えることがわかると、財団を使って米国大学を調査し、「細菌論」に基づき医療教育を再構築するように提唱した。この中で、「健康的な生活習慣、清潔な水、良好な栄養状態によって免疫系の強化を図るよりむしろ特定の薬で特定の細菌を攻撃する薬学のパラダイムをベースにすべきだと説いた」p47。そして薬剤やワクチンの開発を推奨した。

 ん?なんか、このパンデミック騒動の一連の流れと同じ匂いがしない??

 だが、当の医科大学、それも世界的に有名で権威あるジョンズ・ポプキンス大学とCDC(米国疾病予防管理センター)が、一世紀に及ぶ医療データを精査し、「ワクチン接種は20世紀における伝染病死亡率の著しい低減の主要因ではない」と結論づけている。原因追及と対処開発による科学ではなく、死亡率低減の功績は栄養と衛生にあるp50。下図の通りだ。

The Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(下) p53


ファウチの悪事を見破る本当の専門性

 記事でも書いたがファウチの悪事は何人もの人に見破られている。だが毎度復活する。その理由の一端を本記事ではなんとか解き明かしたく、考察…の手前のラフスケッチのままだけれど、書いている。
 もちろん彼らがカネにかしてマスコミを黙らせたり、権力を傘にきてライバルの職や地位などを締め出したり奪ったり、ということをたくさんしてきた(とThe Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(上)をはじめ一連の書籍に書かれている)。しかも悪事を暴く人たちは、ただものじゃないんだ。一流の政治家(エドワード・ケネディ上院議員)、リュック・モンタニエ博士(ノーベル賞受賞者)ほか一流の生物学者などなど。日本でも福島雅典京大名誉教授とか、井上正康 大阪市立大学 名誉教授とか。辞めさせられてしまった京大の宮沢 孝幸先生とか。
 単なる専門家、だけでは、お金の渦に巻き込まれてしまう。あるいは出世競争や生き残り競争や早くいい論文を書いて認められたい、などの欲の渦に巻き込まれてしまう。
 本当に専門性があって実力があって、それにプラスαアルファたる、何か。
 何か強く曲げられることのないもの。
 それこそが本当の専門性のような、気がしている。

科学による医療とエビデンスによる医療

 ここにロバート・ケネディ・ジュニアがその著書The Real Anthony Fauci 人類を裏切った男(下)の中で述べている、現代における『科学による医療』と『エビデンスによる医療』p52の対立の萌芽がないだろうか?(正確には彼は20世紀に入って感染症による死亡が激減したのは、『ワクチンによる説』=『科学ベースによる説』と『環境・衛生による説』=『エビデンスベースによる説』の対立があり、良いところを取り入れることが公衆衛生と人類に最も寄与する、と語っているp52)(だから私が拡大解釈して造語して使っていることになるのかもしれない)(だが説明に便利なので、このままこの語を使っていく)。

 私は科学による医療=エビデンスによる医療だと思っていたので、この2つの対立にびっくりした。よく医師は「エビデンスは」とか言うものね。

 ロバート・ケネディ・ジュニアは本書の中では明示的に『科学による医療』と『エビデンスによる医療』の定義を述べていない(ように見える。私の見落としもあるかもしれないが)(私が把握した彼の用語と使用法は上述の通り)。

 ただ文脈から察するに、『科学による医療』は単独の原因を突き止め、その原因に対処する医薬品やワクチンを開発して原因に対処すること。『エビデンスによる医療』は高木兼寛が英国から持ち帰ったような臨床第一患者本位の医療。何かを検証するときも最低限の対象群介入状況を判断し、目の前の患者が楽になり、大勢の患者が救われる選択をする、と解釈できる。(と私が解釈しているのかもしれない。以下は左の定義を使っていると思って読み進めて欲しい)。
 コロナパンデミック時の『エビデンスによる医療』と『科学による医療』はインドの一部の州で手に入りやすく安全性の高い既存薬(イベルメクチンなど)を使い、他の州では欧米流のワクチン投与を行なった(こちらはThe Real Anthony Fauci 人類を裏切った男(上))。もちろん既存薬で治療した州の方が圧倒的に治癒率が高かったし、コロナ死も少なかった。どちらの治療がより優れている?エビデンスは何を示している?イベルメクチンなどの既存薬でしょう!これがエビデンスによる医療
 一方『科学による医療』とは、欧米流のワクチン投与のことだ。『科学的であるといわれている権威』に盲従する医療になってしまっている。原因を突き止め対処する治療のはずだけど。何が起きているか、目の前のことを見ていない。本当にこれが科学的な医療なのかな?日本の厚労省はもっと情けない。「日本と同じような薬事審査の水準を持つ国での承認がない限り、特例承認制度の対象にならない」(イベルメクチン ; 新型コロナ治療の救世主になり得るのかp147-p148)なんですか?その風見鶏の態度は。「アメリカ様という権威の言うとおり」が本当にサイエンス?科学なのだろうか?

ま、私のボヤキは置いておいて。

 目の前で起きていることを大切にする。目の前の患者が楽になる治療を優先する。患者が増えないことを優先する。

 上記は当たり前のことだと思うけど、「科学的ではない」「(日本と同じような)薬事審査の水準」でないからと厚生労働省は認めない。

これを是とする心理的背景は一体どんなものなのだろうか?
権威主義?事なかれ主義?

実はこれ、判断というタイパ、コスパのかかる作業から逃げているのではないだろうか?自分の常識というもしかしたら一番の宝物を自ら放棄していないだろうか?

ま、それが事なかれ主義ともいうのかもしれないけど。

タイパ、コスパを求めすぎると、毒にも縋りつきたくなる!?

注射一本で解決させるメンタリティ

 少し前(といってもコロナ騒動よりずっと前)、会社で働いていた時に、上司にあたる人が「これからどうしても休めない仕事が続くから、インフルエンザワクチンを打ちに行く」といっていた。私にとって当時からワクチンは毒でしかなかったから内心「えええ〜!?体調管理を栄養や睡眠、体力作りでするんじゃなくて、ワクチン!?」とびっくりした。もちろんそんなこと言いませんでしたけど、ね。
 また、これもかなり前、どちらかと言えば、ホリスティック療法に近い学びをしていた時、「子どもが風邪をひかないように、注射を打たせる」と話している人がいた。その時ちょうど子どもがワクチン接種の後、朦朧とした意識状態になり、高所から飛び降りるという事故が多発していた時だったと記憶している。その人は、でも「風邪をひくことの方がリスク」といったような話をしていた気がする。いやいや。高いところから飛び降りたら、最悪、命まで失ってしまう。風邪なんて、子どもは引くことにこそ価値があり、それで免疫がつくんじゃないの??と思うけど…その人の意図はどんなところにあったんだろう?「注射一本で子どもが風邪をひかず、私も(会社などを)休まずに済むのなら安いものだ…」あるいは「注射一本で子どもが苦しむ姿を見て看病せずに済むのなら安いものだ…」ということだったのだろうか?私には子どもがいないから、わからない。というのもあるし、その時なんだか怖くて、その人に確認できなかった。「子どもが風邪を引くリスクって何?」と。「飛び降りてしまうことの方がよっぽどリスクじゃないの?」と。

忙しすぎるお医者さん

 前に記事に書いた長尾和宏医師がいっていたことだけれど「今のお医者さんは忙しすぎる。だからお医者さんを責めないで欲しい」といっていた。
 私たちは専門家に任せることで、時間を買っている面もある。いつまでもクヨクヨと悩んでいるより、体調が悪いなら、お医者様に行くのは一つの手段だ。だけどそうやって、お医者にお金が回っていくとともに、私たちは自分の健康を「人任せ」にしている側面もある。じゃあ、健康を自分任せにするって?
 まず、そこから学ばないといけない。自己流すぎず、自分の健康に責任を持つあり方を。

そもそも突っ込めないジャーナリスト

  医療ジャーナリストの鳥集徹とりだまりとおる氏はLizzy氏との対談の中で述べている。「ジャーナリストたちはお医者さんに何も言えない。くらい負けしている」と。

 本来は暴走する可能性のある医療を監視する役目を担っているはずの医療ジャーナリズム。だが今の日本の医療ジャーナリズムはその役目を果たしていない、という。「偉いお医者様の話を右から左に流しているだけ」だ、という。そして今回の騒動も、多くの医療従事者を取材して信頼してきたお医者さんたちが、常識とは違うことを言い出して、「アレ?」と思うようになったという。それは「医療業界の空気を読んだ」ためではないか、と。
 密閉された具合の悪い人ばかりいる空間で、上から降りてくる情報ばかり。病院は洗脳装置である、と。
 そして監視の役目を負っているはずの医療ジャーナリストたちは勉強不足にも程があるし、監視するという自負もなく気力も能力もない、と。偏差値で負けているジャーナリストがお医者さんに「ここ違うんじゃないですか」という勇気がない、と。自分で考えるのではなく権威主義に陥っている、と。
 「自分の体の中に何を入れるかは、自分自身で決める権利がある」「必ずしもお医者様がすべて正しいわけではない」。
 二元論(どっちが正しいか間違っているか。どっちが勝つか負けるか)に陥りがちで、どちらかしか報じないマスコミ。ジャーナリズムにも色々問題がありそうだ。

面倒でも時間がかかっても自分に聴く、自分に向き合う

 専門家に任せてショートカットするのではなく、自分の常識を信じて、また自分自身を信じて、面倒でも時間がかかっても自分に聴く、自分に向き合うことが求められているのではないだろうか?

 ずっと以前、ネイティブアメリカンの教えに夢中になっていたことがあった。あるいは世界中の先住民たちの教え。その中に、思春期に差し掛かると男子も女子も、それぞれ通過儀礼を受ける。森の中で、数日、数週間一人で過ごす、など。森の中でのサバイバル。そしてたった一人、森の中で自分にとって特別な精霊との繋がりを見出す、という。あるいは特別そういう神秘体験をしない少年少女もいる。それでも良いのだろう。まあ大抵は精霊との繋がりを見出すのだと思う。そしてどういう体験をしたか、しなかったか長老たちに報告する。すると長老たち年長者は「お前には狩人の適性がある。◯◯のところで修行をしなさい」などとアドバイスをする。ほとんどの子は狩人になるんだろうなぁ。あるいは精霊との繋がりを見出せない少年少女は体よく追放などされるのだろうか?「お前は特別にもっと精霊との繋がりを見出せるようにX Xに行きなさい」など。
 何が言いたいかというと…昔はそうやって、少年少女が自分を信じる土台を見出す手伝いをコミュニティ全体でしていた社会もあった、ということ。「これで自分は一人でも生きていける」「いざという時には精霊が導いてくれる」。精霊への信仰という形。実は受験勉強はその変形バージョン、現代版だと思う。『社会の常識』を植えつけて?身につけて?それを土台にその後の人生を送りなさい、と。試験の時間は一人きりだ。カンニングなどをすれば別だけど。自分の中に培ったものだけで試験を回答していく。それが丸暗記の回答だとしても。とりあえずその時は『自分の中にあるもの』だ。試験が終われば忘れてしまうものであっても。なんか歪んだ通過儀礼だけど。日本社会はそういう通過儀礼を課している。多かれ少なかれ先進国と呼ばれる社会はそうした何かを持っている。

 もう専門家に任せる、あるいはマスコミの言うことを鵜呑みにする、というコスパ、タイパ重視のショートカットには無理がきている、ということのように思う。一人一人の常識。あれ?と思った自分の直感を信じてみる。それに基づいて自分なりに調べてみる。自分自身に聴く、という選択。それは時間がかかるのだ。日々の生活に流されていると『立ち止まる』ことにどれだけの心理的負担がかかるか。自分自身の体のメッセージ、NOの声は小さい。無視する方が容易だ。そう言うふうに訓練され、日常生活を回すことを優先させることにずっと慣らされていているので。

 原因追及は問題への対処法を与えてくれるコスパ、タイパと親和性の強い考え方だ。それが『科学による医療』の土台だ。一方『エビデンスによる医療』は?目の前の一人一人まったく異なる患者さんと向き合うこと。それでいて大きな傾向を掴むこと。そのための調査などの創意工夫。あるいは環境改善など、一見大掛かりで面倒臭いこと。自分だけで完結せず、医療だけで完結せず社会全体として見直していくことの連続だ。コスパ、タイパとはかけ離れている。それが公衆衛生、だ。それでいていったん出来上がれば次の需要まで相当な時間が空く。技術や考え方を途絶えないようにする社会的な仕組みが必要なのだ。また出来上がった社会インフラの維持保持も。それはコスパやタイパとはかけ離れた大局観が必要だ。だが結局は、それが一番安くつく。逆に言えば簡単に儲けることはできない(インドでのイベルメクチンの効果をみよ)。

 だから…ファウチの悪を続かせている、あるいは、ファウチ的な極端な「原因追及-解決型」に加担しているのは、私たち自身にあるタイパ、コスパ重視の考え方だ。私たちの中にあるタイパ、コスパ重視の考え方とファウチ的な悪の土台は相似形をなしている。
 注射を打てば、問題解決だ!と思うメンタリティにまさしく呼応している。
 私はそう思うのだけど、みなさんはどう思いますか?

 通じるかな?飛躍しすぎ?

 多分、この考察、もう少し続く、と思う。まだ考察以前のラフスケッチ。うん。このラフスケッチはまだ続くと思う


おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

福島雅典京大教授がワクチン副反応について書いている

表現者クライテリオン

 タイパ、コスパを特集した号がある。しくも編集長はインフラの専門家、藤井聡京大教授。読者じゃないし、読んでいないのだけど。一応気にはなっている。

悪の凡庸さ

 ナチスドイツを支えていた良識あるドイツ国民。多くの人々はただ目の前のことに反応し、日々の日常をこなしていたていただけだった!?これもいつか(早いところ)読んでみたい。下記の書の中での言葉らしい。悪の凡庸さあるいは凡庸な悪


ジャーナリスト鳥集徹の本

たくさん著作がある。『新薬の罠』が出世作のようです。

下記はコロナ関係




noteにお祝いしていただきました。マイノリティー中のマイノリティ。NHKにも報道してもらえないデモ。多様性中の多様性。よかったら読んでみてください。


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