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大人のためのサンタクロース考—「サンタは実在するか?」を本気で考えた

我が子から「サンタさんって本当にいるの?」と聞かれたら、どう答えるだろうか。一年前だったら、ぼくはどう答えたらいいか分からなかった。
ある種の後ろめたさを覚えながら「いるよ」と伝えるか、
あるいは「ねー、どうなんだろうね、父ちゃんも直接見たことはないからなぁ…」と御茶を濁すか。

未就学の子どもが四人いるぼくは、「これは将来質問されたとき困ったことになるかもしれん」と一抹の不安を覚えていた。
けれど、先日のクリスマスに心境の変化があった。

12月25日の朝、サンタクロースからの贈り物を子どもが受け取っている姿を見ていたときのことだった。「ああ、サンタクロースって、本当にいるんだ」ということが、深く腹に落ちたのだ。


サンタクロースは、極めて不思議な存在だ。
直接知り合ってもいない子供に、身元不明のおじいさん?が、毎年プレゼントを贈る。
それなのに、子供は贈られたものを「怪しいから受け取らない」とか「悪いものが入っているんじゃないか」と疑うことはない。普段「よく知らない人からモノをもらってはいけません」と言う親も、この日ばかりはそんな無粋なことは言わない。我が家への不法侵入を敢行する、怪しさMAXじいさんに対して全幅の信頼を寄せる。
子供の防犯意識に悪影響だからと、「サンタクロースお断り」と張り紙を貼ることもない。

当たり前だ。

サンタクロースは善意に満ちた存在なのだから、疑う必要がないのだ。
そして子供には、猜疑心など抜きで、サンタの善意をそのまま受け取ってほしいと願う。
それが親心というものである。


子どもにとってのサンタクロース経験とは、どういうものだろうか。
それは、「会ったこのない人が、自分のために、贈り物をくれる」という経験である。
この「会ったこのない人が」というのがポイントだ。親がくれたのでも、近所のおじちゃんがくれたのでもダメなのだ。直接の面識がない人が、自分も知らないところで自分のことを想って、「幸せになれよ」とプレゼントをくれる。
それはつまり、「この世界で誰かが私のことを気にかけ、健やかに喜んで生きていって欲しいと願っている」ということを知る経験である。
クリスマスのサンタ来訪は、「君は、君のあずかり知らないところで、「幸せになって欲しい」と願われているんだよ」という事実を、子供たちに伝える機会なのだ。

今、「事実」と書いた。筆が滑ったのではない。これは事実なのだ。
親になって、以前より分かるようになったが、子どもには幸せになって欲しい。しかも不思議なことに、それは「自分の子」に対してだけではない。どこかで子どもが悲惨な目にあったと耳にすると、心が苦しくなる。なんの関わりもない子に対して「幸せになってほしい」と願う。なぜだか分からないけれど、ぼくらの多くはそう願うようになるらしい。

「人を見たら泥棒と思え」との論調強まるこの世界になお、そうした善意が確かに存在していることを、ぼくらは知っている。
だから、「君は、君のあずかり知らないところで、「幸せになって欲しい」と願われているんだよ」という子供へのメッセージは、まごうことなき事実なのだ。

そしてそうした、あらゆる子供への「幸せになって欲しい。喜んで生きてほしい」という世界の善意に付けられた名前がある。
それが「サンタクロース」なのだ、とぼくは思う。


サンタクロースとはどのような存在か?

赤い服、長いあごひげ、「ホッホッホ」という笑い声、ソリに乗っていること、どれもサンタの本質ではない。
たとえクリスマスの夜に空飛ぶトナカイが観測されなくとも、サンタがいないということにはならない。
たとえ贈り物を準備したのが「赤い服の白髭じいちゃん」ではなかったとしても、サンタがいないということにはならない。

なぜなら「サンタクロース」とは、子どもたちに向けられた世界の善意の名だからだ。

当然のことながら、「善意」そのものを目で見ることはできない。だから、サンタもヴィジュアライズされざるをえなかった。
「見えるもの」を通さずに「見えないもの」を受け取ることは、ぼくらにとって難しいことなのだ。
つまるところ、「赤い服の白髭じいちゃん」は、「見えない善意」としてのサンタクロースに、人間が便宜上与えたイメージにすぎない。

「サンタなんているわけないじゃん(笑)」という子供や、「中学生にもなってサンタ信じてるの?」という人は、目に見えるかたちで表現された「サンタクロース」(仮の姿)を、「サンタそのもの」だと勘違いしているのである。
言葉の正確な意味において、サンタクロースは不可視の存在なのだ。
その正体は、世界中の数多の賛同者の協力を通して贈り物を届ける、目に見えない善意なのであるから。


歳を重ねる過程で、あるとき人は、サンタクロースの願いが私自身の願いであることに気付く。
そしてクリスマスの夜、自分の家庭にサンタを招く。
僕らはそうやって「サンタクロース」と名付けられた世界の善意の一端を、自ら担うようになるのである。

…そういうわけで、ぼくの一抹の不安は解消された。
子どもに「サンタさんって本当にいるの?」と聞かれても、もう戸惑うことはない。
確信を持って「そりゃ、いるさ」と答えていいのだ。
だって本当にサンタは実在するのだから。
詳しい話は、後ですればいい。子どもが「白髭じいさん」のイメージを通さずに、本物のサンタクロースを理解することができる年齢になった時に。

そしてきっと我が子よ、いずれ君も、そのサンタクロースの働きを担うようになるのだ。


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