見出し画像

映画『私はあなたのニグロではない』(2016年)が気づかせてくれるあらゆる差別の抜本的解決方法(ネタバレ無し)

縄文とフェミニズム史について、ほんのちょこっとだけnoteに書いて、脳裏に浮かんでいたのはこの映画でした。

『私はあなたのニグロではない』(2016年)は、バリっバリの黒人映画なんですが、そんなこと抜きにしても大変面白い映画でした。

■この映画の魅力

映画の魅力は、日常ではあり得ない人物になりきってしまう体験ができることだと思っています。ミュージカルを見た後に踊りながら街を歩きたくなったり、任侠映画を見た後で肩で風きって歩きたくなったりと、その体験を日常に持ち込むことで、世界が今までと違って見える、リアルがバーチャルに浸食される楽しさです。

本作は、ジェームズ・ボールドウィンという黒人作家の語りを中心に、数多くの古いアメリカ映画の引用を挟みながら小気味よく進んでいきます。

この映画の素晴らしいところは、悲惨な黒人を追体験するというよりは、ジェームズの到達点を味わえるところにあります。

こう文字にしてしまうと大変不謹慎なのですが、たとえて言うならスタバのコーヒーのような感じです。

スタバは、世界征服をたくらむDr.EVIL(ドクター・イービル)のナンバー2によって経営されている世界企業であり(おバカ映画『オースティン・パワーズ:デラックス』の設定です)、そのコーヒー豆は今日もなおプランテーションによって困窮に苦しむ人々の犠牲的な労働で生産されています(ドキュメンタリー映画『おいしいコーヒーの真実』)。
それでもスタバはおいしい。Amazonプライムで見る映画も楽しい(本作はアマプラで配信中でもあります)、そういう時代に私たちは生きています。

私には想像もできないことで苦労し、傷つき、苦しみ、考え抜いて至ったジェームズの到達点を/香り高い苦みを、うまみとして背徳感無しに味わわされてしまう、飲み込まされてしまう。そんな映画体験をさせてくれます。


■視座の反転

白人と黒人との対立は、二項対立ではないことをジェームズ・ボールドウィンは執拗に説きます。
 彼は、黒人の視座と白人の視座とを自由に行き来するのです。それは例えば次のことばに端的に表れています。

「国はどこであれ白人が”自由か死を”と言えば白人は拍手喝采だ。もし黒人が同じことを言ったらどうなると?犯罪者として扱われ見せしめにされます。」

 彼は白人に対して、ニグロはいない(=黒人として見るな)、ニグロは白人が造ったものだ(=黒人の視座で白人を見よ))というのです。

この反転する視座から、映画史が語り直されます

挿入される豊富な古いアメリカ映画と、それらに対する反転した視座からの解説は、異なる視座で映画を見直すことは、国家史を反転させる企てなのだと気づかせてくれます。

この強烈なメッセージは、同じ時・同じ場所に生きていても見えている世界が白人と黒人で異なることをテーマにした『ブラインドスポッティング』(2018年)など以降に公開された映画にも確実に引き継がれています。

アメリカは、近年、多様性の隠蔽された社会の虚構性のベールを剥がすことであるべき社会像を提示しようという志を感じる映画が多数作られ、次々とヒットを飛ばしているのです。

でも、多様性の提示は、多様性という新たな単一視座を生み出す恐れがあることを、Qアノンの出現や急速に支持を失ったリベラル派の現状が教えてくれます。(↓)。

ジェームズの訴えは、差別解消には、多様性が多様性であるだけにとどまらず、多様性が複数の視座間の自由な往復によって保たれていることこそが重要なのだと気づかせてくれます。

差別解消に有効なのは、闘争による勝利ではなく、逃走して現実を見ないことでもなく、和解でもなく、一つの視座を手放す意思なのです。

そしてそれが黒人問題に限らずあらゆる差別解消にあてはまることは、本邦のフェミニズム史からも明らかなように思います。

「相手の立場になって物事を考えてみよう」という子どもでもわかることを、大人も大人を目指す子どもも長らく忘れてきてしまっただけだとしたら、視座の往復を社会に取り戻すことは、きっとたった今からできることだと思うのです。


■余談(視座の反転とプロレスと日本の与野党)

余談です。私はプロレスが好きなのですが、特に魅力を感じるのは、ヒールターン(善玉から悪玉に転じること)とベビーターン(ベビーは善玉の意)です。これがまさに視座の往復なわけで、プロレスは観る者に視座の往復を強いるエンターテインメントなのです(どちらか一方を応援しがちな他のスポーツと異なり、攻めている方と攻められている方とに同時に感情移入する試合鑑賞姿勢からもそのように言えるかと思います)。

日本のプロレスでは、ヒールターンは頻繁に行われますが、ベビーターンは劇的には行われず、人気が出たヒールがいつの間にかベビーの位置にいるというパターンを取ります。

これに対し、世界最大のプロレス団体であるアメリカのWWE(World Wrestling Entertainment)は、ヒールターンもベビーターンも明確な形で行われます。WWEは、女子プロレスの目的はミソジニーと闘うことだとリングの上で経営陣(ステファニー・マクマホン)がマイクパフォーマンスするような団体(そして実際に改革が行われました)ですから、やはり進んでいるなと思います。

国会での学校の先生的な上から目線やヒステリックな追求で、結果的に与党に同情票を集めてしまう日本の野党や、政権交代を嫌うあまり何でもありになって自分が何をやっているんだかわからなくなっている大臣ばかりを見せつける日本の与党を見るにつけ、大人はもっとプロレスを見るべきだなんて思ってしまう今日この頃です。

「私はあなたのニグロではない」の意味は、おそらく「私はあなた(白人)が所有するニグロではない」(制度による差別の固定化の否定)と「私はあなた(白人)が作り出してきたニグロではない」(視座の往復による差別の解消)とのダブルミーニングになっています。
 後者のメッセージは、闘争や和解で差別を解消しようとするリベラルには欠けがちな発想だと思います。国会での野党のパフォーマンスって典型的なプロレスの悪玉そのものなんですよ。例えば、今はベビーターンしてしまいましたが、稀代の悪玉スティーブンリーガルは、英国紳士のギミックで上から目線で野蛮な米国人レスラーをたしなめるパフォーマンスが有名でした。偉そうな指摘に観客はヒートして、敵対する善玉人気が爆発するんです。悪玉がパフォーマンスすればするほど善玉が注目されるという構造は、日本の与野党にそっくりです。まるで野党は与党の人気を上げる目的で国会で追及しているかのように思えてきます
 逆に、トランプ支持者なのに(トランプ前米大統領は中年の時にWWEに登場したことが知られている)Q/Jアノンになっちゃう人たちって、善玉悪玉に人種は関係ない多様性そのものの最近のWWEは見ていないんじゃないでしょうか。せっかくトランプ政権初期にはリンダ・マクマホンが要職についたこともあったというのに残念なことです。
 そういうことで、半分は本気で、余談を書きました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?