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異国から異国へ(個人と国家(4)、文化的侵略)

文化的侵略

中国のセンター試験に相当する「高考」の国語には、作文問題あり、与えられたテーマに沿って800字程度の文章を書き、点数は全体の150点のうち60点を占める超重要問題である。そのため、学校にも週に一回「作文」という授業がある。国語の先生が担当し、通常の授業の2コマを使って、本番同様与えられたテーマに沿って800字程度の作文を書くというものだ。鄭州外国語中学校では、作文はまず学生同士でランダムに交換し短評を書いた後、先生が回収してから全員分を採点、次の週に講評することになっている。テーマはまちまちであり、風景描写の基礎練習や時事論評、ショートショートや御用文化人のマネごとなどなんでもありで、アダルト小説の批評を同級生を書いたときでさえ、先生は怒ったりしなかった。ある意味、貴重な言論自由な空間が、その授業のときだけ、確保されていたのである。

その日の作文の授業も、国語のハン先生はいつもと同じように教室に入ってきて、いつもと同じように学級委員長のぼくが「起立」「礼」をし、先生が今日のテーマを発表し、説明するのを待っていた。首を少し前に傾け、上目使いっぽい表情で話すのがクセのハン先生。しかし、いかんせん上目使いが全く似合わぬ枯れた中年であり、ぼくたちに陰でモノマネのネタにされていた。その日も先生は同じポーズを見せ、ぼくたちに一瞬の滑稽さを提供したのち、ファイルを開いて、一枚の紙を取り出した。

「今日のテーマを発表する前に、まずこれをみんなに読み聞かせておこうと思う。先日、私がネットからダウンロードしたものだ。どうやら、日本人が書いた中国の国家戦略についての分析のようだ。」

あの頃はたしか2002年、鄭州にもようやくブロードバンドが普及し、勉強で忙しいぼくたちも、休日にはネットのコンテンツを漁っていた。掲示板は急速に普及し、面白い記事があれば、無関係な板でもすぐにシェアされ、急速に影響力を拡大させていった。なかでも、目を引きやすかったのは、日中関係に関する記事であった。小泉純一郎が2001年に靖国参拝をしたために、中国では猛批判が起き、小泉をあざ笑うもの、日本の軍国主義的野心を分析したもの、日本製品ボイコットを呼びかけるものなら、またたく間にみんなに読まれる状態だった。そうした記事の一亜種として、「日本人が見る日中関係」というものもあった。おそらく先生は、そのなかの一つを見つけてきたのだろう。

ふーん、先生もこういうものを読むのか。それなら、お手並み拝見と行こうかと、やや河南省訛りのある中年男性の声に聞き入ったが、読みはじめてわずか十数秒で、ぼくは自分もこの記事を読んだことがあると気づき、そして驚愕した。

なぜなら、その記事は明らかに中国を見下す日本人の口調で書かれ、日本への反感を引き起こすのに十分な刺激的な表現をふんだんに使っているからだ。

もちろん、中国人が日本人になりすまして書いた可能性もあるため、日本人がどうのこうのとここで議論するつもりはない。ぼくが驚愕したのは、日中関係について日本人が書いたまともな分析は、探せばいくらでもあるのに、先生は明らかに偏った見方のこの記事を持ち出したことである。さらに我慢ならないのは、それを日本語を学ぶ学生が16人もいるクラスでわざわざ読み上げようとしていることである。訛りがあるとは言え、よどみなく読み進める先生、やばい、もうすぐ差別用語の箇所に入る。ここは抗議すべきかーー

「先生、それやめたほうがいいですよ。それにその記事、もう読んでいる人がたくさんいますし。」

ぼくより先に、ドゥンガくんが我慢できずに声を上げた。「そうだそうだ」と日本語クラスの何人かが同調する。しかし、先生はトレードマークの上目使いをし、「全員がすでに読んでいるわけじゃない」と言っただけで、すぐに紙に視線を戻し、そのまま最後まで読み切った。

その日の天気は覚えていないが、先生が今の日本で使えばヘイトスピーチになりそうな表現もそのまま読んだため、クラスの雰囲気は最悪になり、ぼくには嵐の直前のような薄暗さに感じられた。日本語クラスは大半が目から火が出るほど激怒し、視線が凶器になれるのであれば先生はとっくに肉塊にされている。しかし、英語クラスの同級生のなかには、そんなぼくたちを揶揄するような視線も確かにあった。そして、ピンと張り詰めた空気を作り出した張本人は、それを楽しむかのように目を閉じ、深呼吸してから、今日のテーマを発表した。

「さきほど読んだこの文章にあるように、日本はドラマ、アニメ、マンガなどのコンテンツを使って、中国の若者を麻痺させ、あわよくば全員親日家に仕立て上げようとしている。そして中国の若者は、残念ながら確かに一部そのようになりつつある。たとえば、私が担任するクラスのとある成績のいい女子生徒は、『名探偵コナン』とやらが大好きで、私は『そんなものに時間を無駄遣いするな』と何度言っても聞かない。このように、中国への軍事的侵略に失敗した日本は、今や『文化的侵略』を展開し、初期の成功を収めていると考えられる。なので、今日のテーマは、『文化的侵略』についてだ。私見を述べよ。はじめ!」

なにが「私見を述べよ」だ、白々しい。てめーが「文化的侵略」と予め大前提をつけたものを補強する議論がほしいだけだろうが。わかった、そっちがそのつもりなら、てめーの前提を根本から覆してやる。どうせこれはただの作文の授業だ、テストじゃない。喧嘩を売ったのはてめーだ、逃げるんじゃねんぞオラァ!

そう思ったぼくは、3年間で一番心のこもった作文を書いた。日本のコンテンツは、正規なルートを経たものは市場の原理で中国に入ってきたものであり、国策ではないこと。正規でない海賊版は、日本の製作者には申し訳ないが、より徹底的に市場の原理を反映しており、同じく侵略には相当しないこと。こうしたコンテンツの一方通行はたしかにいびつではあるが、それは中国の製作力が弱いからであり、日本に責任を負わせるのは明らかに無理があること。そして結びで、挑戦的にこう書いた。

「文化的侵略と言うのなら、毎年中国の映画興行成績上位を独占するハリウッド映画の方こそがそれにあたる。それを取り上げずして、日本のコンテンツのみを槍玉に挙げるやり方は、『日本の』だからそうしたという姿勢が見え隠れする。つまるところ、彼らにとって、文化が持つ意味や侵略が実際にあるかどうかは問題にならない。『日本を叩き潰せばいい』という歪んだナショナリズム、ポピュリズムこそが、彼らの行動原理の根底をなす。そして、そのナショナリズム、ポピュリズムは、心の奥底に潜む自国への自信のなさに由来するーーいくら『中国は偉大だ』と、大言壮語を吐いても、いや、吐けば吐くほどに、だ。」

800字を優に超えても、ぼくの思うことの半分も伝えきれなかったが、2コマの授業がまもなく終わるので、語り尽くせぬものは日記にでも書こうと、作文を提出した。このときほど、先生の採点や講評を楽しみにしたことはない。さあ、どうする、先生。怒りはぼく一人じゃないぞ、日本語クラス10数人分があんたに襲いかかるんだ、覚悟しとけ!

その次の週、作文のノートが配られ、ぼくは早速同級生や先生を短評を見ようと、文章の最後のページをめくった。予想では、先生はまたなにか屁理屈を捏ねて、数行にわたる長い反論を書くものだと思っていたが、ノートに書いてあったのは、同級生の短評1行、先生の短評一言だけだった。

同級生「日本について、この作文が書いたのが事実かどうかわからないので、そこは論評しませんが、私は日本が嫌いなのは、たしかです。」
先生「私もだ。」

ぼくは、自分の目の前に、実は高さも幅も計り知れない壁があることを、このときはじめて実感した。そして、自分の怒りを向ける相手が、先生一人ではなく、実はこの国の大半の人間であるべきなんじゃないかと、その時はじめて思った。

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