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異国から異国へ(日本語クラス(5)、ドゥンガくん)

ドゥンガくん

かつての鄭州市は、紡績業で鳴らした街だった。街の西側には、国営の大きな紡績工場が6つあり、鄭州外国語中学校に通う学生の親のなかにも、工場の労働者だった人が大勢いた。

「だった」と書いたのは、ぼくが帰国し、鄭州外語に転入した1998年の時点では、大半がそうでなくなったからである。中学生のぼくたちには詳しくわからないが、とにかくあの頃の中国では、国有企業改革がドラスティックに行われ、大量の労働者がリストラされた(中国語では「下崗」)。リストラされた彼らに残ったのは、ごく僅かな退職手当と、国営工場だった時代にあてがわれた、築数十年の古い社宅の一室だけである。

かつての中国では、国営工場で働くことは、誰もが羨むことであった。給与面よりも、とになく福利厚生がすごいからである。大規模な国営工場は、例えて言うならば江戸時代の藩のようなものであり、そこで働く人は殿様に仕える家来である。工場はお城であり、その周りでは社宅、教育機関、病院などの公的施設が、城下町のように広がる。さらに外側は、外周数キロはあろうかという城壁がそびえ立っている。これらの施設は、すべて工場が運営しており、工場労働者ならば公費で利用できる。つまり、工場が潰れない限り、そこで働く人たちは、ただで住む家をあてがわれ、子供の教育費と医療費は無料、ほかにも手厚い各種社会保障を享受でき、しかも終身雇用である。そんな夢のようなまさしく共産主義的な生活が、1990年代の半ば、一夜にしてなくなったのである。

ぼくがいた日本語クラスにも、そうした家庭の子が数人いた。国有企業改革の時期からすれば、彼らは小学校の中学年から高学年にかけて、そのような激変を経験したことになる。工場に骨を埋める覚悟の親は仕事を失い、運良く残れたとしても福利厚生は大幅な削減。才覚のある人は、目ざとく商売を始め大儲けできるかもしれないが、いつの時代も、ごく普通に生きている人のほうが大多数である。したがって、親が大学教授のぼくからすれば、これらの同級生の家庭は、間違いなく収入面では格下だった。

幸い、そのような子がクラスに大量にいたため、自分だけが貧乏だと苦しむことはなく、それを隠そうとする人もいない。中3が終わったあとの夏休みは、みんな高1までの束の間の自由を満喫しようと、友人の家を訪ねて回るのがブームになった。ぼくはそのときに、学級委員長や成績の上位陣数人の家に行ってみたが、全員例に漏れず国営工場のレンガ造りの社宅に住まい、インターネットが普及し始めたというのに、建物が古すぎるため回線工事ができないような場所だった。日本に行く前も帰国後も、収入がごく普通な家庭のぼく。日本での4年間だけは、日中の経済格差に苦しみ、貧乏生活の大変さと惨めさを身にしみて感じた。しかし、目の前にあらわれた同級生の部屋は、ぼくがずっと特権的な生活を送ってきたのではないかと、錯覚させるほどだった。

もちろん、それを顔に出すことはできない。面と向かって「おまえん家、貧乏だな」なんてのも言えない。だから、彼らが自分の生活を心のなかでどう思っているのか、高校卒業まで、ぼくにはわからなかった。はじめてその本音を聞いたのは、大学1年生のゴールデンウィークに、日本語クラスの通称ドゥンガくんが進学した大学に遊びに行ったときのことである。

ドゥンガは1998年のワールドカップを戦ったブラジル代表のキャプテンであり、日本のジュビロ磐田でもプレイしたことがあるレジェンドだ。一方のドゥンガくんは、うちのクラスのサッカーチームのキャプテンで、背番号はドゥンガと同じ8、そして日本語クラスだ。似ているのはこれだけだが、中学生にはそれで十分。みんなが口々に「ドゥンガ、ドゥンガ」と呼び、彼もまんざらではない。その上、奇妙なことに、中1の時点でジャニーズのような爽やかな顔と、線の細い体を持つドゥンガくんは、思春期に伴い顔が月面のようにクレーターだらけになり、体は千代の富士のような筋骨隆々になってしまった。アイドル的な容姿の喪失に女子は悲鳴をあげ、スポーツマンボディに男子は羨望の眼差しを送る。試合でのプレイスタイルもフィジカル全開のものになり、いつのまにか、ドゥンガくんは本当にドゥンガになっていた。

そんな彼は、大学に推薦で入れるほどの成績だったが、あっさりとそれを辞退した。理由は簡単、「語学が苦手だから、絶対にほかの専攻にいく」ためだ。たしかに、高校受験のときに全校トップ10、大学受験のときは自己採点と実際の得点が完全に一致と、学力と冷静さと判断力を併せ持つのに、彼の日本語は1級試験に合格できても、発音や会話は最後まで苦手だった。その判断の結果、全国で知らない人はいない名門に進んだのだから、「ドゥンガは本当にすげーな、自分のことをよくわかってるよ」と、みんなが口を揃えて称賛した。

彼の大学を訪ねたぼくは、ちょうど寮のベッドが1つ空いたため、そこで1泊することになった。中国の大学はほぼ全寮制であり、4人〜8人一部屋の寮で、夜な夜な男子のエロトークが繰り返されるむせるような空間である。久しぶりに友人と会ったぼくは、彼のルームメイトとも歓談し、とくに重慶出身の明るい男子とは馬があった。次の日には全員で近くのテーマパークに行き、ジェットコースターから漂ってくる女性の悲鳴の品評会を開いた。何の生産性もないが、とにかく楽しい2日間を過ごしたぼくは、大学近くのバス停まで見送ってくれたドゥンガくんに、「2日間ありがとう。ルームメイトにもよろしく、いい人たちでよかったよ」と、素直に感謝を伝えた。

しかし、ドゥンガくんは首を振った。視線を斜め下にやったかと思うと、彼は急に頭を上げて、空を見つめて言った。

「おまえが来てくれて、よかったよ。あいつら、悪いやつじゃないけど、話を合わせるのは大変だ。」
「そうか?結構普通に喋ってたじゃん?とくにあの重慶のヤツ、面白いヤツだったよ。」
「はは、面白いか。あいつは、とくに大変だ。おまえは知らないけど、あいつの親は、軍の高官だ。貧乏になったことがないヤツには、オレたちの気持ちはわからないよ。」

中国では、軍の高官はなによりの特権階級である。金も権力も思いのままとは流石に言い過ぎかもしれないが、何不自由ない生活は保障されている。重慶の子とどんなやり取りがあったかは知らないが、親がリストラされたドゥンガくんからすれば、天と地の違いに見えたのだろう。

しかし、そのことを言われたところで、ぼくになにができるのだろうか。今更、友人が実は中学校からずっと家庭の暮らし向きを気にしていたと気づいても、ぼくは助ける手立てをなにも持ち合わせていない。ドゥンガよ、おまえの頭と思慮深さなら、きっと今からでも逆転できる。そんな安価な信頼しかできないことが、帰りの電車に乗り込むぼくの悔しさをより一層募らせていた。

実際ドゥンガくんは、期待を裏切らぬ活躍を続けていた。大学のサッカー部で中学校に続きキャプテンになり、教授が計画した研修ツアーでは優秀賞に選ばれ、しかもそのツアーの最中に彼女が出来た。人生バラ色だなと同窓会でみんながからかい、ドゥンガくんは「だから言ったろ?オレは語学はダメだけど、ほかは誰にもまけねーんだよ!」と陽気になる。しかし、酔いが回る彼を見て、ぼくは数日前に受け取ったメールのことが、頭から離れなかった。

「なあ、オレは今、迷ってるんだ。今の大学もいいが、研究を更に進めたいなら、やっぱりもっといいところに行かないとだめだ。だから、大学院は日本留学を考えている。語学は嫌いだけど、せっかく1級を取ったのだから、それを使わない手はない。ただ、一つだけネックがある。おまえも知っているが、金がないんだ、オレには。日本のことならおまえはよく知っている、オレのような家庭でも行けるか、アドバイスしてくれないか。」

ぼくはいろいろ調べた。奨学金の政策、国立大学の学費免除条件、バイトの時給、住居費、生活費……とにかく、彼にはぜひともより広い世界に飛び込んでほしい一心で、ぼくは返事をし、メールの最後でこう書いた。

「おまえは男のなかの男だ!キャプテンだ!たかが金で夢を諦めてどうする!絶対なんとかなるから!」

今思えば、実に無責任な言葉だった。具体的な提案はなにもできず、外国に行ったこともない彼に、こんなメールを送るぼくは、大学生になったとはいえ、やはりとんでもなく未熟だった。そんな人の言葉に、中学校から冷静沈着だったドゥンガくんが動かされるはずもない。結局彼は、国内の他大学に進学した。

ぼくはがっかりした。その大学が悪いわけではない。ドゥンガくんの指導教官は当該分野において世界でも5本の指に入る人物だ。研究という意味では日本よりもいいかもしれない。がっかりしたのは、ぼくの未熟なメールに、彼が返事さえしなかったことだ。「メール読んだよ、考えとく」でもいいから、なにか反応がほしかった。なぜ返事してくれないのか、金のことをいいたくないのか?いや、向こうから金のこと相談してきたじゃないかーー

その瞬間、ぼくは気づいた。

彼の大学に遊びに行ったとき、別れ際にルームメイトとの格差を嘆いた彼は、「貧乏になったことがないヤツには、オレたちの気持ちはわからない」と言った。そのとき、ぼくは彼に掛ける言葉が見つからないと同時に、「オレたち」にも違和感を抱いていた。ぼくにとっての貧乏は、あくまで日本での4年間のことであり、帰国してからは一般的な生活だったから、それに同調することに思わずためらったのだ。そうやって、知らず識らずのうちに、自分と友人を違う人間だとみていたぼくは、日本留学にかかる資金を「絶対なんとかなる」と表現してしまい、鋭いドゥンガくんは、その文面から、彼とぼくの間にも、天と地の違いがあったと感じたのだろう。

そうか、やっぱりぼくのせいか。大学に入ってから、むかしの友人をどんどん失っても、特に心が痛まなかったぼくは、はじめて泣きたくなった。

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