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ショートショート『雪待ち』

 今年もあいつが好きな料理を作って、なんとはなしに待っている。特に決まった約束があるわけではないのだがー。
 何か外で気配がすると思い、玄関のドアを開けてみた。この家は、村からかなり離れたところで、広い草原の中に建てているから、隣人が訪ねてくることはほとんどない。冬になると今日のように雪が降り、辺り一面真っ白な世界が広がり、空を見上げると鈍色の雲が広がっているだけだった。
 ある日、玄関ドアをノックする音がかすかに聞こえた気がした。僕は誰が来たのかを確かめもせず、ドアを開けた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「また来ちゃった」
僕は昔からよく知っている彼女を家の中に招き入れた。
「いまチキンが焼きあがったところだよ」
「…あなたが食べるの?昔飼ってたカナリアが死んでから、チキンは食べられなかったんじゃなかった?食べられるようになったのかしら」
「お茶入れるよ」
僕はそう言ってポットを火にかけた。
「お湯が沸くまで暖炉の近くにでも座ってて」
僕は紅茶葉の入った缶を棚から出した。彼女は、コートを脱いでリビングの白いソファに腰を下ろし一息ついていた。
「和むなあここ。変わってないわね」
「ああ。君がいた時から変わってないから」
「ここの雰囲気好きだったわ」
 ポットをコンロの火にかけ、しばらくすると白い湯気が上がった。茶葉を入れたティーサーバをカップに入れ、ポットからお湯を注いでしばらく置いておく。次第に紅茶の色が滲み出してくる。蓋をして蒸らしたりせずに、この色を眺めていることが多い。キッチンにある小窓から外を見やると、まるで時が止まっているように、静かな風景が広がっている。枯れ草が風になびくこともなく、遠くの林に鳥が鳴いている気配もなかった。僕は淹れたての紅茶を彼女の元へ運ぶ。
「最近どう?」
「そうね、相変わらずよ」
「相変わらずって言っても、少しくらい違うだろ」
「ほら、また。細かいところまでツッコミがあるのよね、あなたは」
「重要だろ?日々の微細な変化を楽しむって」
「楽しむってよりは観察ね」
彼女の雰囲気は、あの時から全く変わっていない。当然といえば当然なのだが。僕が淹れた紅茶を一口飲んで、ホッと息をついている。
「そういえば、あなたが好きなものは、風上から流れてくる花の匂いとか、枝に残った数枚の枯葉とか、長年使った木製スプーンの色とか、春から夏にかけて変わる草の色とか種類とか、そういう感じだったわね」
「そういうのを観察するのが癖なんだよ」
 彼女は相変わらず、野生的な輝きを目にたたえて遠くを見つめる。この鋭い眼光に見つめられると動けなくなるほど魅力的な目をしている。彼女と二人暮らしをしていた時は、研究所を辞めた僕の慎ましい生活とか、人里離れて暮らすとか、彼女は僕に全てを合わせてくれていたんだと思う。そして比較的早く僕たちの生活は終わりを迎えた。彼女は僕の元を去ってしまった。彼女がいなくなったのは、クリスマスも近いこんな寒い日だった。あれから一人でこの家で生活を続けていた。
「こうやって私の好物を毎年用意してくれているのは、私を待っていたんでしょう?私のこと…まだ好きってこと?戻ってきて欲しいって思ってるのかしら」
「全くその気持ちがないわけじゃないけれど、もう君を苦しめたくないよ。心配して来てくれるのは嬉しいけど」
紅茶を一口飲む。
「私、ここの暮らしは短かったけれど楽しかったのよ。新鮮な事ばかりだったし。だけど、あれからこうやって毎年待っていられると…心配になるの」
「なんだい、わざわざやって来てそんな心配しているのかい」
「あなたは私の好きなチキンを焼いて、新しい女性も作らないで一人で暮らしている。それだけでも私に未練が残っているのかなって思うじゃない」
「君は出会ってすぐに一緒に住もうと言ってくれて、周りから反対されても一緒にいたいって言ってくれて、とても嬉しかった。それはわかりきっていたのに、僕は…。流行病で倒れてから君は弱っていくばかりで…正直そんな君を見たくないって思った。僕は辛いことから目をそらしてばかりだった。もう脳はHPA系の発動だよ」
「チキンは作ってくれたじゃない」
「今ひよこを育てているんだ。土地は余っているから小屋を作ったんだ。命を育てて、糧にすることに抵抗がないわけじゃないけれど。君を失ってから何日も考えたよ。君がいないことと命は巡っているということを理論立ててはいえないんだが、なんとなく感じられたから。君とまた会えたし、僕はひよこを生かし、ひよこは僕をこうして生かしてくれる。量子論的にいうならば複雑なエネルギー相互作用だね」
「あなたに初めて会ったのは研究所に入所して数日経った頃だった。あなた実験道具を抱えて前が見えてなくて、徹夜明けのせいかフラフラ歩いてくるからぶつかって。一緒に散らばった実験道具を集めて。ガラスが割れて木っ端微塵なのに、私のことばっかり心配して。それからあなたを知れば知るほど好きになっていって。研究所を辞めてからはここに住んで。若いからよくわかっていないんだと周りに反対されてたから意地になってただけなのかな…そうは思いたくないけど…あれっ、これじゃあ未練があるのは私の方じゃない…。でも、あなたと最後まで一緒にいたことは後悔してないわ」
彼女はそう言ってコートを手に取り「帰るわ」と言った。
「そうか」と言って僕は玄関ドアまでエスコートした。
彼女はコートを着ると「これが最後よ」といって僕の唇に唇を寄せた。少し唇が震えていた。
「お願いがあるの」
雪の上に立った彼女はそう言って振り返った。
「早く新しい彼女をつくってね」
「難しいかも知れないけど、君の願いなら…善処するよ」
彼女はにっこり笑った。
「それじゃ」
「ああ」
そう言って僕は空を見上げた。こうやって会うのも今年で終わりかもしれない。生物は言葉や文字にとらわれないコミュニケーションにおいて、密かにお互いのエネルギーを感じ取り干渉し合っている。会ったばかりの僕たちは、お互いを強め合う干渉があったということだ。しかし、現実的に表現するとしたら、僕の心が生み出した孤独な『幻影』なのかも知れないが。
 今朝からひとしきり降っていたが、いっとき晴れていた冬空にまた鈍色の雪雲が近づいていた。気温もさらに下がり始めて吐く息が白い。玄関からずっと足跡1つない雪の絨毯に、小さな雪のつぶが積もり始めた。

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