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ショートショート『彼女メシと共感覚』

俺はある日曜の午前中、奇妙なことが自分の身に起こり、そのことについて図書館で調べるうちに、1時間もたたずに頭を抱え始めていた。ネットで調べた心当たりがある単語「共感覚」について、なかなか飲み込めないまま、もっと詳しい内容がないか専門書をペラペラめくっていたのだ。

「共感覚」とは、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく、異なる種類の感覚も自動的に生じる主観的な知覚現象らしい。音を聞くと色が見えたり、文字や数字に色を感じる「色字」なんかもある。

「五感以外に、感情や単語に関しても起こることがある、かあ」

独り言を言うようになってしまった。追い詰められているな、俺。本を棚に戻してとぼとぼと図書館を後にし、彼女と同棲している自分のアパートに戻った。

「おかえりー」

「ただいま」

「本借りられた?」

「ああ」

「ああって、あったの?」

「うん、まあね」

「変なの」

「変かな」

「お昼食べる?」

「いや、ちょっと外出るから」

「そうー、わかった。夕飯までには戻る?」

「夕飯もいいや。大丈夫だから。行ってきます」

俺は、家に帰るとすぐに駅近のカフェに向かった。ランチを食べるためだ。実は、彼女の作る食事が食べられなくなった。正確にいうと彼女の作った食事を食べると彼女の『感情』がはっきりとわかってしまうので、怖くて食べられなくなったのだ。

それは一週間前、同棲1年目を祝う夕食からだった。 味に対して敏感なのは昔から自覚はあったが、こんなことは初めてだった。彼女は机の上にご馳走をびっしり並べ、いつもの笑顔を浮かべていたし、料理はいろんな食材が使われていて、美味しそうな匂いを醸し出していた。メインディッシュを食べ始めてた辺りから、だんだんと自分の中でおかしな反応が起こっていった。舌で味わった感覚が、頭の中で変換され、『感情』のようなものになるのだ。頭の中で響く感じに近い。その時は自分の気のせいだと思った。しかし、その日を境に、彼女の作ってくれた料理を食べるたび、毎回違う『感情』が頭の中で言葉になって浮かぶのだ。最初の食事に感じた『感情』は『別れたい』だった。次の日の朝食では、『限界でしょう』。その日の夕食では、『ここらが潮時』だった。しかし、普段からはそんな素振りは一切なく、いつもと変わらない他愛もない冗談も言い合っているし、僕は心当たりがないが、彼女は違ったんだろうか。気づかないところですれ違っていたのだろうか。このことを相談して、わかってくれるやつもいない、いやわからないだろう、わかるわけがない。俺が変になったと笑うやつはいるだろう。 この奇妙な感覚の治し方はないものかと、専門書を探してみたものの、 彼女の作ったものだけに反応する能力なのだから「共感覚」とは言えないし、 か細い頼みの綱はブチんと切れていた。

明朝も、会社の朝礼があるからといって早めに家を出たものの、早めに出社はせず、駅近のカフェでモーニングを食べて出社時間を調整する。

「よくない、よくないなあ、よくないよー」

独り言が口を突く。ウェイトレスさんがこっちをちらりと一瞬見て通り過ぎた。これ以上彼女の作ってくれる食事を食べないのは不自然だよと思いながら、モーニングAセットについてきた茹で卵の皮をむく。一口がぶりと食べるとつるんとした食感といい塩梅の茹で卵の味がする。そして熱いコーヒーをすする。もちろん、作った人の『感情』は伝わってこない。こんがり焼けたトーストをかじりながら、さすがに今夜は家で食べないとなと思う。彼女は普段からおっとりしておおらかな性格だが、用意してくれた料理を食べないと言うたびにちょっと寂しそうな顔をするのだ。手料理は基本美味しいのだ。手間もかかってる。なんの問題もなかった。何か手を打たねばならないな。

会社から帰ると、彼女は気を利かせてか、俺の好物のシーフードカレーを作って待っていてくれていた。

「おかえり。今夜はカレーだよ」

「ああ、いい匂いだね」

「高級カレールーを使ってるからね、お楽しみだよ。あと少し待ってね」

どんな味、いやどんな『感情』のカレーだろう。

カレー用スプーンがスコップのように重く感じる。カレーをすくって思い切って一口食べてみると、シーフードカレーに込められたそれはいろんな『感情』が絡み合って複雑だったが、概ね、『次の人を探そう』だった。これはトラウマになって一生シーフードカレーは食べられなくなりそうな気がする。俺の顔をじっと覗き込んでいる彼女のために、一応、

「おいしい」

と作り笑顔で言ってみた。自分の口元が少し震えているのがわかる。

「よかった。エビも冷凍食品じゃなくて皮をむいたんだよ、って、どうしたの?」

「えっ?」

「おいしいからって涙目になることないじゃない。もしかして、辛かった?本格派カレーだからかなあ」

そう言って、彼女は水をコップに注いでくれた。

もう逃げ続けるわけにはいかない。

俺は自分のかばんから、小さな紙袋を取り出した。

「これ、受け取って」

「なに?え?指輪?」

「俺と結婚してください」

「急にどうしたの?」

「俺たち同棲して1年経つからさ、けじめだよ。嫌だった?」

「嫌っていうかー、急だねえ。まあ、らしいといえば、らしいんだけどー」

「それで、どうなの?受け取ってくれる?」

俺は、彼女の目をじっと見つめて思い切って聞いてみた。

「はい、いただきます。これからもよろしくお願いします」

「えっ、OKなの?」

俺は、すんなり受け入れられて単純にびっくりした。次の人探すんじゃなかったの?

「いいの?後悔しない?他に好きな人とかできたりしてない?」

「えーいないよー、そんな人」

「そ、そうかー」

「もしかして断られるかもって焦ってたの?」

「いや、全然、まったく」

残りのカレーを口の中に放り込むようにスプーンで運ぶ。内心、焦りまくりだった。しかし、彼女の『感情』だと思っていたあれは一体なんだったのか。

カレーを食べ終えて片付けをしながら彼女が言った。

「一週間前にさ、うちの親が手塩にかけて育てた野菜が大量に送られてきたじゃない?この夕食でやっと使い切ったよ。結構食費助かっちゃった」

そうか、ご両親の思いが野菜を通して俺の深層心理に聞こえていた声なのか?それとも単に見えないプレッシャーを感じていたのか?原因はなんなのかはっきりしないままだったが、この日から料理の声は聞こえなくなっていた。とにかく粛々と、この週末はご両親にご挨拶に行くことにしよう。

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