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世界は友達でできている。私の最近の友達

 お昼ごはんを一人リビングで食べ終え、コーヒーを淹れてふぅっとため息をつくと、なにやら背後が騒がしかった。背後にはベランダの窓。今日は気温が高く蒸し暑いので網戸にしているから、洗濯物が風に揺れる音がするのは午前中と同じだ。

 しかし、お昼ごはんを境になにかが違う……。そう思ってふりむくと、そこにはどこまでも青すぎる青空が光っていた。太陽だ、そして空だ。午前中は晴れる予感がありつつも白く曇っていたのに。いつの間にか、見事な灼熱の太陽が私の背中に笑みを投げかけ、雲はふんわりと身軽そうに散らばっていた。

 久しぶりの晴れ空。台風やら梅雨入りやらで、しばらく見なかった空の顔。あれっ、我が家の窓から見える空って、こんなに広かったっけ?空ってこんなに遠かったっけ。そんなふうに感じた。数日とはいえ、雨雲が低く垂れ込めた空に慣れてしまっていたらしい。

 まったく、その曇天のせいか自分のせいかはわからないが、元気なのか元気ではないのか釈然とせずボーッとしているこの私に、背後からしつこく暑い視線を送りつけてくるとは、良い度胸だ。よし、noteを書こうじゃないか。……そんなこんなで書き始めたのがこの記事だ。


 と、前振りはこのくらいにしておいて。最近ふと思ったことがある。「世界は友達でできている」。いや実は、中学や高校時代の友達や前の会社で出会った仲間とは、私の体調と気分不良のせいで近頃は全然会えていない。それでまた元気をなくすというどうしようもないスパイラルに嵌まっている私なのだが、なぜそんな素敵なことを思ったのかというと。

 最近、新しい友達が二人できた。そう、人間の友達だけではなくて、身の回りには、この世界には、友達と呼べる存在がいくつもあるのだと気がついたのだ。ちょっと励まされた。^_^
 今日はその友達を紹介する。
 

アートは友達 🖼️

 一人目はアートだ。過去に5回くらい、一つの作品を鑑賞し文章にしたためたアート記事を投稿しているが、アートのなかでも印象派・後期印象派と特に親しくなった。私は美術について勉強したのは中学校が最後なので、専門知識は全然ない。けれど、大学生になって突然、アートの世界に魅せられた。教科書と見つめ合っているだけではわからなかった、美術館で実際に対話する鑑賞の魅力。

 はじめは友達と、次第に一人で、ゴッホ展や印象派展、エジプト展へと足を運んだ。おおお、こんなに奥ゆかしく興味深い世界があったのかと、目だけでなく耳も鼻も心も奪われた。そうだ、エジプトなどの古代の美術も好きだ。

 それまでアートに関するイメージは、ルネサンスの宗教画とか浮世絵とか、それくらいしかなかった。それが、マネ、モネ、ルノワール、ドガ……。セザンヌ、ルソー、ゴッホ、ゴーギャン……。マティス、ピカソ、シーレ、「私は天使を描かない、なぜなら私は天使を見たことがないからだ」と言い切ったクールベ。どんどん世界が広がっていった。

 なんだなんだ、こんなに面白い革命家や野心家がいたのか!美術史とは、こんなにも胸熱く追いたくなってしまうものなのか!表現の仕方も意見も好みも全く違うと思われた芸術家たちが、実は地域や時代をも越えて工夫や葛藤を刺激し合い、受け継ぎ合って繋がっている。大きな河の流れ、太く立派に編まれた縄。その迫力に圧倒され、と同時に励まされ、時に涙をこぼし合った。

 時々、画家の想いが手に取るようにわかる。ああ、会えないけれどわかり合える。作品を通して語り合える。友達ができたと思った。大切にするから、そばにいてほしい、そう思ってポストカードを買った。彼らは部屋の壁や机の上から、私のことを見守って、話し相手になってくれる。素敵な友達を持ったなと思う。
 

夜は友達 🌌

 二人目は夜の外気である。昔は夜をただただ暗いものだと思っていて、ちっぽけな私をいとも簡単にすっぽりと包んでしまう闇のことをこわく感じた。年齢が上がるにつれて少しずつそれが薄れていって、去年から最近にかけてついに親しくなった。こわいのは不審者ではないかと思う闇の中の人影であって、夜ではないと思うようになった。

 夜の空気の匂いが好きだ。特に好きなのは家のベランダで触れ合う空気。ほのかに甘さを含みつつも、酔いや迷いを覚ましてくれる絶妙な涼しさが醸し出す、冷静で独特な匂い。爽やかなようで少し切なく、どこかしっとりとなまぬるい。(夏の熱帯夜は別だけれど。でも、じっとりとしてなまあたたかい夏の夜も好きだ。)

 そしてなにより、街中の喧騒の空気と違って、住宅街にある私の家のベランダの空気はとても静かだ。この静けさも心地よい。物音はほとんどしないけれど、家々や生き物や緑の発する気配はあって、だから一人じゃないと思える。頬を撫でてくれるやさしい夜風と微かにあたたかい各家庭の生活感が、私の心を落ち着かせ、感情の波を平常に戻してくれたことは数え切れない。

 最近はほとんど慣習か祈りの儀式のように、23時以降になると軽くベランダに顔を出して夜空を眺め、澄んだ空気を肺に飲んで、風と月とハイタッチをする。静かに、そ…っと、でも、確かに。そうして呼吸を安らかにしてからベッドに潜り込むのだ。すっかり毎晩会う友達になった。


 私が夜と友達になれたのには理由があった。前の会社で一年間働いていた時、夜まで仲間と学んだりごはんを食べたりして帰ることが珍しくなかったため、学生の頃よりも深い夜道を歩くことが増えた。入社当初はまだ子どもだったので、暗さやお酒に酔った人たちに怯えて早足で歩いたが、徐々に慣れ、夜だからといって不吉なことは案外起こらないとわかって、だんだん打ち解けていった。

 そしてなにより家のベランダでは、会社の上司や仲間と時々夜中に電話をした。単に必要な連絡事だけではなくて、悩みや不安、現時点で自分が立っている場所の確認、その先の目標などを、いつもやさしく訊ねて耳を傾けてくれる上司と共有した。休みの今日、なにしてた?というたわいもない会話もしたし、夜中に突然涙が溢れて眠れなくなって、わるいと思いながらダメ元でラインをしたら電話をかけてくれたこともあった。

 上司に言うべきか迷うことは他の先輩を頼ったこともあったし、体調やメンタルを壊すと仲間があたたかい声を聴かせてくれた。そのやりとりの一つ一つが、長かったあの夜の通話時間が、いとおしくて大切な思い出たちが、ベランダの夜には詰まっている。今でも時々思い返しては息をするのがくるしくなるほど、詰まっているのだ。そんな特別な夜の空気は、私を切なくもやさしい気持ちにしてくれる。後悔も傷もやるせなさも、夜の帳が包んでくれる。闇で見えなくしてくれる。


 ◯


 なんと心づよい友達だ、と私は思う。ヒトの形をしていなくても、寄り添ってくれる存在がある。それが友達。じゅうぶん友達。ああ、いつも私の心を救ってくれてありがとう。アートも夜もこれからも大好きでいるから、だからこれからも、よろしくね。

 (………うん。)微かに返事が聞こえた気がした。もしかしたら、草や糸やピアノの声かも……。ほら、ね?やっぱり。身の回りには、友達になれる存在が溢れている。世界は友達でできているのだ。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました
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