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『哀れなるものたち』感想・レビュー

どうも!chomminです!
今回は、2023年12月に公開された「哀れなるものたち」のレビューをしていきます!劇場で見た鮮烈なイメージを、なるべく書き殴らない様に気を付けていきます笑

「ストーリー」
 この映画は、ゴドウィン、通称ゴッド(ウィレム・デフォー)と呼ばれる老爺の外科医と、彼と同居する若い女性、ベラ(エマ・ストーン)の二人の生活から描かれていきます。ゴッドは名の知れた医者で、大学で解剖学の講義を行いながら自身の研究に没頭する、一見フランケンシュタインのように顔が爛れた、医者というよりも科学者といった風な人物です。家族を持たないにしては広すぎる豪邸に住み、使用人には業務上最低限の言葉しか投げかけない冷酷な性格の持ち主であるようです。しかし彼は、同居人であるベラにだけは、人よりも深い愛情を見せています。ベラはちょうど、ゴッドの孫位の風貌の、20代後半くらいの大人びた女性に見えるのですが、言動がとてもおかしいのです。食事中に人に食べ物を投げつけたり、床にお皿を次々に落として割り続けたり、廊下で平気でおしっこを漏らしたり、使用人からすると辟易とするような我儘な行動をとります。しかしゴッドはそれに驚きも怒りもせず、平然と対処をしていきます。孫なのかお子さんなのか?それにしては甘やかしすぎで、彼女の目も、あまり見ないよう意識しているようにも見えます。一方で子供には理解しがたい専門的な科学の話や哲学の話をベラに教えていき、ベラはそんなゴッドに少し退屈さを感じつつも、彼をまさに「ゴッド」と呼んで親や師匠のように慕い、尊敬し、頼りながら、外に出てはいけないと言いつけられた家の中からまだ見ぬ広い世界にいつか行けると夢を持ち続けています。
 そんなゴッド家に、新たなメンバーが加わります。ゴッドの講義に出席していたマッキャンドルス(ラミー・ユセフ)君です。彼は学生の間で不信感を抱かれていたゴッド教授に信頼を寄せている真面目な優等生で、そんなゴッド先生のお望みとあらば、どんな研究にも協力しましょうと、ゴッドの言うがままに豪邸へとついていきます。
 するとそこに待っていたのは、子供のように無邪気な振る舞いを続ける若い美女でした。マッキャンドルスは彼女の言動や思考を四六時中記録する係に任命されました。しかし彼は彼女に一目惚れし、実験対象として以上の感情を持つことになります。彼は仕事と私情の間で揺れ動くのですが、ゴッドから衝撃的な事実を知らされ、その幸せな目にも曇りがかかっていきます。
 それは、実はベラはゴッドが川から拾って来た入水自殺未遂者だったということです!夫婦関係や子供に希望を持てなくなった若い妊婦が、橋から身を投げたところ、冬の冷たい水温もあってか偶然か、死後まもなくの新鮮な状態で肉体をゴッドに拾われてしまいます。ゴッドはその死体の珍しい新鮮さに驚き、今ならまだ脳細胞が死滅していないと踏み、腹の中の子と母親の脳を入れ替える手術に取り掛かったのです。移植手術を終えた後、激しい電気ショックを母親に与えると、なんと母親は瞼を開け、生まれてくるはずだった赤ん坊として生を歩み始めます。
 その事実を知ったマッキャンドルスは、怒りと同時に、愛しの人に幸せを与えたい気持ちが高まり、ベラに結婚を申し込みます。ベラは結婚が何たるかがさっぱりわかっていない様子で、楽しそうだからとあっさり婚約を受け入れます。その時ゴッドは、ベラとマッキャンドルスが結婚する代わりに、一生豪邸の中から出られない約束をさせる旨の契約書を弁護士に相談します。この弁護士、ダンカン(マークラファロー)は、絵にかいたようなプレイボーイで、美人であるベラに早速唾を付けます。
 ベラをものにしたいダンカンは、いつまでも閉じ込められた世界に居続けるのは馬鹿らしいと、婚約者であるマッキャンドルスを横目に駆け落ちを決行します。金持ちのダンカンはベラを都会に連れて行き、豪華なホテルやクルージングを与え、その対価としてベラの体を貪ります。脳が幼児なベラは、「体の快楽」を「遊びとしての純粋な楽しさ」としか捉えず、大人の僕らと違い自分の体が侵食される恐怖や悔しさを感じないようです。
 ベラはダンカンとの旅を通じて、様々な哲学を持つ人々と出会います。ダンカンのように言葉をたくさん重ね上辺だけの理解を示して愛も求めてくる人もいれば、言葉を重ねなくても同じ考えを共有していると肌で感じられる人もいる。愛のためにお金が要ると言われる時もあれば、暮らしのために愛を売ろうと誘われる時もある。ベラは安全で無駄のない内の世界から、危険で無駄ばかり蔓延る外の世界に身をゆだねることで、ゴッドの都合ばかりに偏らない、「ベラ」としての自己を確立していくのですが、、、

「感想」
 
内容に触れる前に、私はこの映画を予告編を見ずに鑑賞しました。そのため事前情報は、ララランドの可愛らしいヒロインのアップ写真のみでした笑
題名も悲観的だし、ポスターもミッドサマーやMother!(2017)を彷彿とさせる、美しいんだけどどこか不安定で危険な予感をさせるもので、一体どんな内容なんだろうとワクワクしたり怖かったり。映画が始まって最初に驚いた部分は、何といっても白黒映像です。冒頭はカラー映像だったのですが、それは少しだけで、その始まり方を忘れさせられるくらい長い時間、白黒で物語が進んでいきました。この色調とウィレムデフォーの怪物の様な容姿が相まって、まるで昔の作品の、醜い男と美少女の奇妙な関係を描いた童話的な映画であるかのようにも見えました。
 そして、フランケンシュタインのようなおとぎ話要素も、この映画の魅力です。つまり、分かりやすい説明がなされずに見せつけられるファンタジー世界をこの映画は含んでいます。当たり前のように首が白鳥、体が犬のペットが現れたり、ゴッドが食事後にガラガラと口から大きく濁ったシャボン玉を吐き出し、4,5秒浮いて、ぱっと消えると、ベラやマッキャンドルスが「さすがですね」と褒めたたえたり、、、なんだか他人に理解は求めない、空想的な世界がそこには織り交ざっていると感じます。この空想はベラが観ているものなのか、「ゴッドとベラの豪邸」という独特な空間だからこそ生まれている産物なのか。その豪邸の外に住んでいる私達には分からないかもしれませんが、しかしすごく昔に私達も見たことがあるような、そんな気もします。
 ベラはマッキャンドルスとの恋で「体の火照り」を覚え、その火照りをダンカンにかき回され「性の快楽」にはまっていきます。ダンカンを演じたマークラファローは、バナー博士やスポットライトの記者、シャットアイランドのお医者さんのように誠実で真面目な役のイメージが強かったので、今回のように欲望にむき出しで、自分のだめさ加減に甘んじる役柄はとても新鮮で面白かったです笑 一方、ウィレムデフォーの役柄はグリーンゴブリンのようでイメージに合いましたし、エマストーンが幼児退行して思いっ切り暴れ、後半は皮肉っぽい性格を出してきたのも、陽気で知的なイメージに合っていました。今回はその陽気な部分を加工なしに見れたように思います。
 ベラの成長を振り返ると、「大人の体」と「赤ん坊の脳」を掛け合わせると、「欲求解消の悪意無き効率化」という結果が生じるのだなと考えさせられました。普通の大人は欲求解消を効率的にしようとすると、どうしても悪意が生まれてしまいます。それは欲求解消のための素材が有限であると知っているからです。しかし中身が赤ん坊であるため、なにかと周りの大人がその素材を与えてくれる環境が当たり前であると考えているベラは、大人のように欲求を満たしてくれる素材に手を出すことへの罪悪感に悩むのではなく、それら素材をどう活かしたらより多く欲求を満たせられるかに悩むのです。そうして育ったベラは、風俗嬢として働き出してから初めて、「自分からやりたくないことをする悩み」を持ち始めます。家の中にいたころはゴッドたちから「強制された」やりたくないことでした。さらにベラにとってセックスは至高の娯楽でしたが、仕事として様々な性癖の人に合わせなきゃならなくなってから、そのセックスも「思ったより楽しくない」ことに気づきます。この二つから、ベラは楽しくないことに一日の大半を費やす、いわゆる普通な生活を送るようになり、そのストレスの発散は同じ環境にいる仲間とのコミュニケーションであるという、思春期~青年期で学ぶ気づきを得ていきます。ここからベラはゴッドたちから自立していき、自分の方向に進むために、自分を操作して来ようとする「親族でない人間」を遠ざける防衛法も学んでいきます。最後、ベラの旦那を名乗る人物が現れ、銃口を突きつけ家に戻るよう脅しますが、ベラは当然記憶を一新されており、ただの不審者である元旦那は殺し、脳をゴッドの手によってヤギの物と取り換え、ペットとしてベラ&マッキャンドルス家の庭に放し飼いします。草を食べる元旦那や、首と体があべこべな動物等々に囲まれて、ベラは今までにないリラックスした様子で友人と紅茶を飲む。そんなのほほんとした(?)映像でこの作品は幕を閉じます。
「ベラは仲間が欲しかった?」
 
ベラは旅の途中、富裕層しか乗れないクルーズ船から見下ろせる、貧困層たちがひしめくスラムを目にして激しく動揺します。特に、生まれる赤ん坊が栄養を取れず死に、大人に利用されるために死体を寄せ集められて地面に捨て置かれています。ベラは涙を流しながら彼らに同情し、ダンカンの全財産をひっそりと、用務員経由で貧困層たちに与えようとしますが、それらはただ用務員のポケットマネーになって終わるだけでした、、、
 ベラの赤子たちへの激しい同情、ベラに見えている首のすり替わった動物達、ベラは自分の体と脳が違うことを認識していて、自分の境遇に近い存在を無意識に欲しがっていたのかなとも思えます。しかし境遇が近いと言えば、「赤ん坊」、「首のすり替わった存在」の他に、もう一つ要素がある気がします。それは「母親(母体)」ですよね。ベラが自分の母性を最も意識し始めたのは、メンヘラなダンカンと体を交え、慰めていた時、また風俗で働いて、自分の体と快楽について理解を深めた時だと思います。そこでベラは初めて「友達」ではなく、「女性の仲間」の存在を知っていったのです。赤ん坊の知能で、「性差」について認識しえなかったベラが、風俗を通してその差について知るという展開は、男女問わず肉体が未熟な子供が「肉体の利用価値」を社会に提示したくなるように、「男女の価値」が戦場的に比べられる現代で生きる我々に、経済的価値を「人間の繁殖」に当てはめてしまう狂気さと臆病さを警告してくれるものとも思えます。
「ベラの人生」
 そのように旅と労働での成功体験によって、子供の無邪気さと大人の思慮深さを手に入れたベラは、誰よりも自信満々な、いわゆる突き進む生き方をしていくのだろうと思います。それか、脳の定着が持たず途中で死んでしまうかもしれません。いずれにしろベラはこれから先、また子供を作るのか、仕事としては研究を手伝うのか別のことをやるのか、脳を入れ替えた人間に対してどんな考えを持つようになるのか、、、どんな変化を経ていくのでしょうか。未熟な精神のまま社会に放たれたという点では、私たちの中にも共感する人は多いのではないかと思います。しかし、自殺したくなるほど病んでいた時代も倫理観も忘れ、愚直に自分の欲求に向き合い続けるベラの姿は、なんだか羨ましくも見えてしまいます。あなたも、過去のしがらみや自分自身の整合性にとらわれることなく、衝動する何かにしたがって動いてみてはいかがでしょうか?その先の景色が美しいか汚いかはわかりませんが、楽しいことは間違いないようです。

 以上、chomminでした!
 今夜はここまでです!また別の映画で、お会いしましょう🌙


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