【公演レビュー】2024年2月4日/井上道義指揮、NHK交響楽団


要約

2024年12月で指揮活動から退く予定の井上道義が、近年NHK交響楽団と行ってきたショスタコーヴィチをメインとする公演の集大成。
ヨハン・シュトラウス2世が元々ロシアのひとの依頼に応じて書いたポルカ、ショスタコーヴィチのコインの裏側を垣間見られる行進曲やワルツ、そしてナチスのユダヤ人虐殺を出発点としながら、ソヴィエトの様々な側面も投影した詩を用いたショスタコーヴィチの問題作がという考え抜かれた構成。
NHK交響楽団は、日頃個々の高いポテンシャルを音楽に生かせず、平凡な演奏会ばかりやっているがこの日は様子が違う。
曲目から色々と想像が膨らみ、指揮者の棒捌きに注目が集まるなか、何よりオーケストラの各パートが楽想にふさわしい音色、質感を可視化していた。指揮者の「読み」を繰り出す一種の揺さぶりも、全体の推移の中でうまく織り込まれ、耳に残りつつ変な浮き方はしない。
また後半のショスタコーヴィチに登場する独唱、男声合唱はいずれも声質が楽想にピタッと符合し、広いホールにしっかり言葉が浸み込む。
対訳を見ながら聴くとショスタコーヴィチの作曲術がずっしり伝わる。
9割方埋まった聴衆は重い余韻の後に熱い拍手を続けた。

《曲目》

プログラムA(NHKホール)
第2004回定期演奏会
井上道義(指揮)
郷古 廉(コンサートマスター)
アレクセイ・ティホミーロフ(バス)*
オルフェイ・ドレンガル男声合唱団(合唱指揮:セシリア・リュディンゲル)*
ヨハンシュトラウス2世:ポルカ・フランセーズ「クラップフェンの森で」作品336
ショスタコーヴィチ:舞台管弦楽のための組曲第1番より「行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」
〜休憩(20分)〜
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番作品113「バビ・ヤール」*

練られた内容

元々はヨハン・シュトラウス2世がロシアの駅と契約した演奏会のために書いたポルカで始まり、次に聴きやすい表面の一方、どこかツンとひねくれた性格のナンバーが並ぶ、ショスタコーヴィチの軽音楽的雰囲気の作品で編まれた組曲(全8曲)の抜粋。キューブリック監督の遺作「アイズ・ワイド・シャット」に使われた「ワルツ第2番」は、元々「第1軍用列車」なるプロパガンダ映画用音楽の一部。未見の作品だがどんな場面にあてたのか。見たいような、見たくないような。
そして旧ソ連時代の悲劇、皮肉、諧謔が詩と音楽で折りたたまれたショスタコーヴィチの交響曲第13番。
色々考え、想像できるプログラムと言えばそうだが、ここは下種の浅知恵をひねるよりまず音楽と真摯に向き合うつもりで席に着いた。

NHK交響楽団が珍しく持てる力量を音楽に昇華

井上道義は各パートの役割分担を徹底した上で、それを自在に出し入れし、きめの細かさ、凝集性、振幅の大きい強靭な起伏が組み合わさった音楽を形成する。
今演奏会のNHK交響楽団は指揮者の求めを真摯かつ積極的に汲み取り、表現とアンサンブルの両面で高いレヴェルの響きを奏でた。
シュトラウスでは楽団員によるユーモアを交え、ショスタコーヴィチの組曲ではスパッと切り結ぶところと洒落たなかにけだるいアイロニーがにじむ楽想の描きわけが冴えた。
後半のシンフォニーは、テキストに密着した一部の隙も無い音楽をピタッとフォロー。残酷さ、韜晦、皮肉が投影された楽想に沿い、弦を中心に質感が瞬時にチェンジできていた。
個々の楽団員の高い技量をオーケストラ全体の演奏充実に殆ど繋げられないのがNHK交響楽団の悪しき特徴だが、この日だけは例外だった。
指揮者の見識とそれを受け止めたコンサートマスター郷古廉(井上道義は彼を幼少期から知り、「神童だ」と絶賛していた)の共同作業の成果だろう。

声楽陣の人選が奏功

独唱者は当初予定の歌手が来日できなくなり、代わってアレクセイ・ティホミーロフを起用したが、これは「禍を転じて福と為す」の典型の結果に。
がっしりした声と機敏な抑揚(+わざとらしくない程度の身振り)でテキスト、音楽のかみ合わせを的確に歌い表した。ムーティやクルレンツィスの指揮で本作の独唱を経験済みなのも生きたと推測できる。
なお、ティホミーロフがムーティ指揮、シカゴ交響楽団と共演した演奏は音源あり。CDのライナー掲載の写真から作曲者の未亡人臨席の公演だと分かる。
ロシアの隣国スウェーデンの男声合唱団も野太くしかも透明度も高い歌唱を聴かせた。
筆者はロシア語の発音の巧拙は全く分からないが、少なくとも声質、響かせ方の点で本公演の声楽陣は作品にピッタリだったと考える。

交響曲第13番・・・作品の緻密さに震撼

前述の通り、この作品をあれこれ分析するのは筆者の知力では到底不可能。ただ、今回対訳を見ながら聴いて(望ましいやり方ではないが、本作では必要と判断)ショスタコーヴィチがいかにテキストを読み込み、言葉の連鎖と詩人の下意識に向き合って、怖いほどそこに密着した音楽を創り上げたかは少し聴き取れた。
奇抜な手法や試みに寄りかからずに、誕生から半世紀以上経ってなお、聴き手に重い衝撃と尽きぬ問いを刺す音楽を書いたショスタコーヴィチの才能、作曲技術に改めて眼を開かされる演奏会だった。

※文中敬称略※

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