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これは快なのか、不快なのか

 快楽と不快の区別が絶頂に達したとき、私はこれは快なのか、不快なのか、わからない。金村修「sold out artist」を見たときに湧き上がる衝撃の不快感と最も愛する人に出会えたときの衝撃の快感に私はもはや、その本質にどちらの区別も付けられない自分に気がついた。それだけではない。例を挙げれば、美術館から展示に対して、猛烈な権力を振りかざし、展示内容の変更を求められた衝撃的な不快感とやはり、好きな女の子に出会えた衝撃的な快感に差異は、本質的にはない。どちらにもあるのは衝撃で、それが不快なのか、快感なのか、わからなくなってしまった自分は、何かの病なのだろうか。それとも本質なのか。

 ただ、どちらにも共通するのは、幻想あるいはイリュージョンによってこれらの衝撃は発生しているということである。金村修「sold out artist」での不快感の原因は、イメージの氾濫が快楽的なものとして受け止められ、自分自身は常にそれらを否定しながら、喜びそれらを受け入れてしまう身体に対する反応だった。イリュージョンは身体を蝕む。また愛する人に出会えた衝撃は、愛する人が私の前になんの約束もなしに、偶然に現れ、眼差しに射られることだった。眼差しもまた身体を犯す。どちらも身体が硬直し、緊張状態が走る。快感と不快は同時に平行されているとしか、考えられない。

 美術館から展示に対して、猛烈な権力を振りかざし、展示内容の変更を求められた衝撃的な不快感は、美術館という施設に対するイリュージョンから来ているだろう。美術館は多様性を重んじ、アートとアーティストを尊重するべきだというイリュージョンが私を狂わせる。実際、美術館は理念には多様性を謳ってはいるが、実際、美術館のその機能は、権威と保守そのものでしか、ほとんどない。美術館は最初から伽藍堂であり、そこには多様性と権威は何もない。そしてまた、好きな女の子に出会えた衝撃的な快感によって、先程まであった景色が一変し、美しく素晴らしいものに見えて対象がはっきり浮かび上がるような歓喜もまた、イリュージョンでしかない。何故なら、この世界は最初から美しい。足すことも否定することもなく、美しく、かつ美しくない。美しくさという価値すら世界は否定する。実存は本質に先立つというサルトルの言葉を思い出す。

 快と不快は、もはや一緒だ。それならば、不快も私は受け入れられるのではないか。快楽が私に対して微笑むように、不快も私に対して嘲笑のではなく、実は微笑んでいるのではないか。

作家の日記
2022.09.10.

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