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あの頃は「気持ち悪い」としか言えなかった。

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
猛暑の続く日々。クーラーの効いた社屋を少し出ると、今にも体がドロドロ腐っていきそうなほどの鋭い日差し。アスファルトからは蒸せ返るおぞましい熱気。なんとか生きていますか?

こんな気候では、暗い出来事に遭遇するとメンタルバランスがあっという間に崩れてしまいそうで、気を引き締めています。
とはいえこの暑さには体も堪えているようで、夏バテのようなだるさを慢性的に抱えています。なんだか疲れが取れない。なんだかだるい。なんだか体が重い。職場の女性陣とお話ししているとどうやら私だけでないようです。

ふと思った。この感覚、なんだか懐かしいな。

それは私が小学二年生の頃に遡る。父親が出張でイタリアに1ヶ月以上行ってしまった時のことだ。
父親の出張自体は珍しくないが、その先が海外ということはそれほど多くなく、しかも1ヶ月という期間は記憶にある限りではこれが最大だったのではないだろうか。

あの頃の私は父親が出張に行ってしまってから、いつも心がざわついていた。いつかはちゃんと帰ってくる。そう分かっていてもなんだか落ち着かなかったのだ。小学生の頃は今よりも時の流れが遅く、毎日毎日がとても色濃かった。だからこそ1ヶ月という時間が本当に長く、果てしないように感じていた。

ある時、自分の体調が常に「なんだか気持ち悪い」ということを自覚するようになった。それは何が起因しているのか、当時は全く分からなかった。
気づけば保健室の常連になってしまっていた。熱もないのに、毎日「なんだか気持ち悪い」から体調が悪いのだと自己判断し、保健室に通った。

保健室のベッドで横たわり、眠ることも出来ずに無機質な天井をずっと眺めた。休めば気持ち悪いのが治ると信じて、空白な時間に苦痛を感じながらもじっと堪えていた。運動場から聞こえる同学年の声は心地よいわけでも、耳障りなわけでもなく、テレビから聞こえてくる別の世界の音のように感じた。保健室の先生が呆れ気味であることを薄々感じており、孤独だった。

「なんだか気持ち悪い」
今思えば原因は明らかだ。
大好きな父親に会えなかったことが心細くて、やりきれなかったのだ。漠然とした不安を抱えるには心も体も小さすぎた。心の不調が体にも伝わるということが当時はわからなかった。(小学生低学年だったし馬鹿だから仕方ない。)

あの時、自分の体調を「なんだか気持ち悪い」と伝えることが精いっぱいの表現だった。
その不器用さが今になって愛しいなと思う。
自分に何が起こっているか分からなかったあの頃に戻ってみたい。そうしたら「なんだか○○」で溢れ返るんだろうなあ。
今はどんな気持ちも大体その根拠をつきとめてしまうし、それに対する自分の扱いや対処方法が分かってきている。

今の自分だってわからないことだらけではあるけれど。変に知識で型にはめようとしてしまう自分が最近窮屈だ。

夏のうだるような暑さにやられて、自分自身ごと煮だってきたようです。
素直で光るような味がつけられたらいいな。

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