たまにはしみじみ日本礼賛【天皇陛下と富士山の日】

よく晴れた穏やかな一日だった。

昨年はまだ平成だったから、令和になってこの日が祝日になるという感覚があまりない(昭和世代のわたしとしては“昭和の日”が一番天皇誕生日として馴染み深い)ので、二月中に祝日が二日あるというのはなんとなく不思議な感じがする。というか、今年は閏年で29日まであるけれど、28日までしかない年だと“二月逃げる”のことばどおり、一か月がさらに短く感じられそう。

ほんとうは初の天皇誕生日になるのだから、もう少しお祝いムードがあってもよさそうな感じだけれど、COVID-19(わざわざ名前をつけたにもかかわらず、ニュースなどでは相変わらずコロナコロナ言ってるのは何故?)がシャレにならない感じになってきているせいか、静かに粛々ととり行われたのだなぁという気がする。

実はわたくし、天皇陛下と雅子皇后のご成婚記念パレードに行って、そこでナマのお姿を拝見できたという貴重な体験がある。べつに、政治的な思想や宗教的な思想なんて全く持ちあわせてない自分なのだけれど、ほんとうに神々しくて、涙が出るほど感激した。やっぱり特別な存在なんだと身をもって体験したあの時の感覚は、今でも鮮やかに身体に刻まれている。 

忘れもしない即位礼正殿の儀の日。あの時の虹にも、とてもとても感動した。神がかっている、特別である、というのはまさにこういうことなんだ、と。


そして、そんな天皇誕生日の今日は“富士山の日”でもあるということを今年初めて知った。(語呂合わせだからすぐわかりそうなものなのに、、、やはり静岡&山梨県民ではないせいか?これまで考えたこともなかった)

富士山といえば日本の象徴。その日と、天皇誕生日が同じというのはこれも偶然の一致とはいえ、とても素敵な巡り合わせだと思う。


東京で生まれ育ったわたしだが、10年ほど前まで住んでいたマンションからは富士山を見ることができた。その家に引っ越して、いつ頃だったか父が「ここから富士山が見えるよ」と教えてくれたのだ。わたし達家族が住んでいた部屋の台所の窓からよっこらしょと身を乗り出すと、確かに、富士山を見ることができた。すると母が「そんなに頑張らなくても屋上に行けば見えるわよ」と。
以来、元旦とか、空気の澄んだ冬の朝早くとか、思い立った時に屋上に行ってはエネルギーをもらっていたのが懐かしい。

仕事で新幹線に乗るときも、満席でない限り必ずE席を予約するようにしている。もちろん、富士山めあてだ。新横浜を過ぎた辺りで眠気が押し寄せても、富士山の姿が見るまではなんとなくいつも落ち着けない。
車で移動するときも富士山が見えてくると心の中で「わああぁ~」って歓声を上げてしまうし、どんどん近づいて見えてくるのに比例してテンションも上がってゆくのだ。

2年ほど前からお世話になっているとある会社のオフィスからも、富士山が見える。ここでもやっぱり屋上から。ビルの谷間からのぞく姿ではあるけれど、やはり見えると嬉しくなるし写真を撮りたくなってしまう(単純)。そこでは、空が澄んで雲があまりない午前中はもちろん、夕暮れ時にはシルエットのような富士山ものぞむことができる。


何度見ても、いつ見ても、見るたびにやっぱりいいなぁと嬉しくなるし、なにか大きな力をもらえるような気もする。逆に、ちょっと元気をもらいたいなと思うときに限って、曇り空で姿が見えないとざんねんな気持ちになってしまう。どこかで、拠り所にしている自覚がある。


富士山と天皇陛下。
決していつもそのことを考えている訳ではないのだけれど、いざという時に心の支えになってくれる、日本の象徴である存在として、これからもわたしたち国民を見守っていてほしいなと思う。



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