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招かれざる客となること。

二年間の課程が終わり、空港で帰国便を待っている。
ダニエル・K・イノウエ国際空港。

往々にして「最も孤立した陸地(the most isolated landmass)」と呼ばれる
ハワイ諸島の地で考えたことは数多いけれど、
今ここで書き留めておくことがあるならば、
これをおいて他にはないであろう。

多くの人の夢、僕にとっても長い間の夢であった「ハワイ移住」を中断し、
僕が帰る決断を下した一因となったことである。

ただ、そのためには少し、時代を遡る必要がある。

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1893年1月17日、
ハワイ王朝は、アメリカ人実業家らと軍のクーデターによって転覆する。
5年後の1898年、
合衆国連邦政府はハワイ諸島を併合することとなる。

その期の法的根拠はいまだに存在せず、
連邦政府の不法占拠はここから始まることとなった。

1959年6月、
ハワイ準州民は、合衆国50番目の州になるかの住民投票を実施する。
同年8月21日、
後に「加盟許可日(Admission Day)」として記憶されることになるその日に、
ハワイは合衆国の州として設置されることとなる。

その期の住民投票には「独立」という選択肢は与えられず、
連邦政府の不法占拠はいまだに続いているのが現状である。

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合衆国の狂気は、すでに周知のことであろう。
だがしかし、この「史実」は僕にとっては何を意味するのだろうか。

端的に言うのであれば、
この「史実」は、僕自身が不法植民者であることを意味する。

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第一に、「F1ビザ」と言うアメリカ合衆国による法的根拠による滞在だということ。
ハワイ民族の許可を何一つ得ずに、この土地に足を踏み入れた事実は、
それだけで僕を植民者たらしめるに十分であろう。

しかしそれ以上に、僕が白人でも、黒人でもなく、
アジア人・日本人である、と言う事実が僕を植民者たらしめるのである。

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ハワイに来たことのある人ならご存知かと思うが、
この地は歴史的に日系人の影響がかなり強い。

19世紀末から20世紀初めの明治政府肝入りプロジェクトで、
沖縄や広島、山口、和歌山などから多くの日本人が移住し、
砂糖やパイナップルのプランテーションでの過酷な労働に従事したからである。

白人の下で立場のなかったそうした日系労働者たちは、
次第に力をつけてはいくものの、
戦時中戒厳令のもとで、再び厳しい監視下に置かれる。

そして戦後、
プランテーションからも、「敵国民」のレッテルからも解放された日系人らは絶大な勢力を形成し、
先の住民投票でも大きな影響力を発揮、
連邦上院にはダニエル・イノウエ氏、州知事にはジョージ・アリヨシ氏、デイヴィッド・イゲ氏を送り込んでいく。

だからこそ2024年5月中旬の今、
鯉登りはいまだに登っているし、
サーターアンダーギーのお店には長蛇の列ができる。
僕の、昨日の夕飯は「オカズ」屋で買った煮しめと海老天だった。

労働者としての過酷な環境から始まり、
直向きな努力によって、成功していった日系人たち。
僕らの祖先、姉妹兄弟たち。

まさに、典型的な「アメリカン」・ドリームである。

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先住民を排除し、排除することによって初めて成立する、
典型的な「アメリカン」・ドリームである。

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日系人の成功の影には、「先住民搾取」の構造への無自覚な加担があるし、
その限りにおいて、日系人は植民者なのである(Asian Settler Colonialism)。

「先住民の利益」に資さなければ、この土地、
ハワイ先住民に属するこの土地では、
どのような美談も、植民者のエゴに成り果てる。

だからこそ、
アジア人・日本人である、と言う事実が僕を植民者たらしめるのである。

21世紀の今になって、自分の意思でこの土地に足を踏み入れた僕を。

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もちろん、日系人の苦労や努力を、無に帰すつもりはないし、
僕らは、彼女彼らに多くの感謝と尊敬を捧げねばならないだろう。
明治大正のあの時、僕らの直接の祖先がハワイに渡っていた可能性だってあるのだから尚更だし、ある意味感慨深くもある。

それに二世や三世の日系人は、この土地に自分の意思とは関係なく産まれてきたのであるから、
一様に批判することはできないし、そもそも日系人も一枚岩ではない。*
ハワイ先住民の利益のために奔走する/してきた日系人だって多くいる(Settler Aloha ’Āina)。
僕も、できる限りはそのために動く努力はしてきたつもりである。

ハワイ先住民の意見も一様ではない。
一概に全員が独立を支持していると言うのも間違いであろう。

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だがしかし、構造的には僕はこの二年間植民者であった

そして、無責任にもその重圧に耐えられなくなったその僕は、
今日本に帰国するのである。

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往々にして「楽園」と呼ばれる
ハワイ諸島の地で考えたことは数多いけれど、
今ここで書き留めておくことがあるならば、
これをおいて他にはないであろう。

四年目の「アメリカ」生活が終わり、空港で帰国便を待っている。
ダニエル・K・イノウエ国際空港。

元ホノルル国際空港。
ハワイ語 (ʻŌlelo Hawaiʻi) で言えば「静かな湾」となる。**

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お邪魔させてくれた‘ĀinaとLāhui、
そして、クリスティン・ヤノ教授に愛と感謝を込めて。

少しはマシな自分になれたことを祈りつつ。

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[註]
*上記の思想的多様性に加え、沖縄系と内地系の対立、いや、内地系による沖縄系への差別が深刻であったことも特筆すべきである。
**「言語」は広い。ハワイにおいてはフラも言語である。故に「語」という単語を安易に適用するのはあんまりかもしれない。

[参考]
・Fujikane, Cadence. 2021. Mapping Abundance for a Planetary Future: Kanaka Maoli and Critical Settler Cartographies in Hawai’i. Durham, NC, and London: Duke University Press.
・Hau’ofa, Epili. 1994. “Our Sea of Islands.” Contemporary Pacific 6 (1): 148-161.
・Trask, Haunani-Kay. 2000. “Settlers of Color and ‘Immigrant’ Hegemony: ‘Locals’ in Hawai’i.” Amerasian Journal 26 (2): 1-24.


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