noteカバー画像_campfireアクティビティ__2_

「働いている」という感覚が消えていく

最近ぜんぜん働いていない。もちろん就学もしていないので、わたしは世間的にはニート(Not in Education, Employment or Training)に分類される。

人に会ったり、ディスカッションしたり、コミュニティをデザインしたり、登壇したり、そういったことはしているけど、どれも「働いている」「仕事している」という感じがしない。おわったあとに「今日もやりきった」「良い議論だったな」とは思う。

オンとオフのようなスイッチの切り替えも特にない。もちろん、相手によってそこに現れる分人が入れ替わることはあるけれど、それは「仕事」と「それ以外」のような二分法ではなく、むしろ相手の数だけある。

自分の活動に対して報酬はもらっている。でも、そこに責任が発生しているとも思っていない。報酬は責任というよりも承認や感謝の表明手段の1つだと思う。

報酬をもらったからにはプロフェッショナルな仕事をすべきだという考えもあるだろうけど、お金をもらわなくても高いパフォーマンスを出すつもりがある。報酬とパフォーマンスを過度に紐付けるのは不健全だとすら思う。

友達の相談に乗ったお礼にとメシをおごってもらうとき、それは仕事なんだろうか?働いているんだろうか?わたしのやっている活動はどれもそんな感じだから、最近は「働き方」についてわたしが話をするのはお門違いなのかもしれないと思ってもいる。フリーランス研究家という看板を下ろしたのも、そんな違和感からだった。

そんなわたしにも、まだ肩書はある。ディスカッションパートナーとコミュニティデザイナーという、一風変わった肩書きだ。

でも、これはそういう仕事をしています、というよりも、そういう在り方がしっくりきてます、という程度のことにすぎない。ディスカッションのときはパートナー的でありたいし、コミュニティはデザインする感覚で眺めていたい。

自然体でいいですね!と言われることもあるけど、この社会では明らかに不自然だろう。誰かの期待よりも自分の在り方を優先すると、こういう仕上がりになる。

それが良いことかはわからないし、周りに迷惑をかけることもあるし、わたしのことを嫌いな人もいると思う。この文章にしても「何を言ってるんだか」と思っている人もいるはずだ。なんならわたしもそう思う。

だけど、よりよい社会には選択肢が必要なんじゃないか。働き方に関するべき論は窮屈なので、そこから外れた存在がちょっとくらいいてもいいし、働いている自覚のないやつがいてもいいと思う。

モデルケースにはならなくても、こんなやつもいるんだな、くらいに思ってくれたら嬉しいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございます!サポートも嬉しいですが、ぜひ「スキ!」をつけたりシェアしたりしてほしいです!それが次の記事を書くチカラになります。