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堀田善衞『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫)

 『新古今和歌集』選者であり、百人一首の選者でもある藤原定家が十九歳から書き続けてきた日記『明月記』を読み解く。戦時中の青年であった著者に定家十九歳時の「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖(イヘド)モ、之ヲ注セズ。紅旗(コウキ)征戎(セイジュウ)吾ガ事ニ非ズ。」が響いたのである。若き日に源平争乱、年齢を重ねた後は承久の乱、とまさに乱世に生きた歌人であった。
 藤原俊成・定家親子の御子左家が家司(けいし)として仕えたのが兼実・良経の九条家(鎌倉幕府寄り)、歌の家としては六条家と対立していたこと。寂蓮、慈円、式子内親王等とも知り合いであること。鎌倉は北条政子が力を持ち、京は後鳥羽院と院の乳母であった藤原兼子が力を持っていたこと、などがよく分かった。
 著者堀田善衞は定家の『明月記』のみならず九条兼実の日記『玉葉』、慈円の『愚管抄』、『源家長日記』、『吾妻鏡』などを読み込みながら書いている。私抄と言うだけあって、定家を借りて堀田の声を聞く書だ。スペインのバルセロナで執筆されたというのも驚きである。装幀は安野光雅。

以下は気になったことのみ。

「なにとなく心ぞとまる山の端にことし見初むる三日月のかげ」
〈「なにとなく」という言い方は、この頃からしきりに言い出されたもので西行や慈円などにも多く、時代閉塞の様相が顕在しはじめると、人は「なにとなく」などという曖昧なことばを口にしはじめるもののようである。〉
与謝野晶子の「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」を思い出した。
〈職業歌人はたとえ胸中に「なにとなく」といった程度の衝迫だけしかがなくても、それでもなおかつなにとなくだろうが何だろうが、詠みついで行かねばならないのである。実情、実景に根拠をおかない象徴歌は、従って次第に、いわば詩の詩、美の美を目指す純粋詩のような有り様を取って来る。〉

〈この今様・郢曲(えいきょく)等の流行歌は、当然自然にやがて和歌のなかへも浸透して行く。〉社会の上層部である貴族皇族が精神的に貧しくなり、文化創造の力を失くしてゆく。それに従って庶民の文化である流行歌が
浸透していく。

〈作歌の上では官能と観念を交錯させ、匂い、光、音、色などのどれがどれと見分けがたいまでの、いわば混迷と幻覚性とが朦朧模糊として、しかも艶やかな極小星雲を形成しているような境地にまで自分をもって行っている。/そうして実人生としての定家日記は、闇の先に多少の曙光が見えていたとはいえ、心身、環境ともに、繰りかえして言うとして実に惨憺たる状況を伝える。それはこの妖にして艶なる極小星雲の、実人生における必然性を問わしめるほどのものである。〉この本を読むまで定家がここまで病弱で貧窮に苦しみ、生活のためと体面のために官位を渇望していたとは知らなかった。華麗な宮廷生活を送った歌人かと思っていた。後鳥羽上皇の若さとエネルギーと一種の天才性に振り回されている感もある。

〈それ(作歌)は遊戯を超えた、もう一つ先での遊びでなければならなかった。たとえその先なるものが、文学的に、ほとんど絶対的な袋小路となるものであろうとも。〉定家と(地下人である)鴨長明が同席して、花見をし、楽を奏しながら帰って行く場面。春十日の月の宵の都大路での場面。

〈この賀会では、宴のあとに管弦の遊び、和歌所一同の詠歌などもあった。いわば日本文学史上の、高踏(パルナツス)の頂点であり、同じ時期の世界文学を如何様に眺めわたしてみても、他に比類のない、いや例外的なまでの現実棄却の文学の祝祭であった。〉定家の父、俊成九十の賀の場面。

〈かくて風俗、とりわけて女性に関しての一説話、あるいは神話的なものが風俗のなかから形成されて来た場合、これに古来からの伝統的な説話、あるいは神話的なものが結びついて、風俗からの、いわば昇華作用が行われ、よって現実棄却という結果が生じて来るのである。そうして人の長い文学活動の歴史に添って見るならば、生活に即したリアリズムはむしろ文学上の特殊現象であるかもしれない。〉宇治の橋姫の神話から。日常では乱世を他所に贅沢三昧の乱痴気騒ぎをしながら、橋姫伝説に乗っかって悲恋の歌を詠んでいる当時の歌人たち。最後の部分に目を開かれた。〈フィクシオン形成は文学的行為の本質であり、〉という一文も書いておきたい。

〈頂点に達したということは、別に言えば文学としては袋小路、ということである。その先にあるものはデカダンスのみであり、現実を棄却して文学によって文学をするものは、必ずや現実によって復讐をされるのである。〉新古今和歌集の美学とその本歌取りの技巧について。新古今の形成の頃から、歌会や歌合せと並行して、あるいは凌駕して、連歌の会が催されるようになった。そして堂上人だけではなく、彼らから見て賤民階級にまでそれが及んでいっている。とても興味深い。

その他「予、逐電シテ退出ス」「京洛ノ摩滅、尤モ奇驚スベキ事ナリ」「車中ヨリ悶絶ス」、逐電、摩滅、悶絶など近・現代語かと思っていたものが鎌倉時代の本書に書かれていた。その語がいつから使われているかというのは本当に知るのが難しい。

ちくま学芸文庫 1996.6. (原版は新潮社 1986.2.) 900円+税

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