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河合隼雄『源氏物語と日本人─紫マンダラ』(岩波書店)

 著者は、源氏物語を光源氏の物語ではなく、彼を媒体にして、紫式部が自分の中の様々な面、つまり内なる分身を女君に投影して描いたと考える。そしてそれを曼荼羅に喩えて読み解く。臨床心理学者の視点で源氏物語を読み解いただけでなく、現代に生きる人間に、どんな物語を持って生きているのか、また、個として生きるとは、を問いかけてくる、非常に読み応えのある本。読んで良かった、自分の生きる方向性を考える一助になったと心から言える本。
 2000年に『紫マンダラ』というタイトルで小学館から出版。2003年に改題再編集されて講談社+α文庫に収録。その後、岩波現代文庫の河合隼雄〈物語と日本人の心〉コレクションのⅠとして2016年に出版された。

 特に六条御息所の生霊(死霊も)が、「男女の一対一関係への無意識の願望」という捉え方は本当に目からウロコだった。多対多、多くは男性からの一対多の関係性が多かった時代に、一対一関係は達成が難しい、というかそういう観念が紫式部にあったのかという驚きがある。
 だから、身分的に決して一対一関係が望めない夕顔はそれを望んですぐに死んでしまうし、身分的にも立場的にも一対一関係を望んでもいいはずの葵の上はそれを意識してかせずか、願望が叶わないことに長く苦しむ。もちろん、身分は充分でも立場的に一対一が叶わない六条御息所自身は死後も苦しむわけだし、紫の上は、長く一対一関係だと信じていたのに、女三の宮の降嫁でそれが崩された時点で、苦しむ。葵の上は未来の、六条御息所は現在の、紫の上は過去の、一対一関係を求めて苦しんでいたのだ。
 また、一対一関係を怖れる藤壺や、出自を気にして一対一関係を思いもしない明石の君や、一対一の関係に興味が無い朧月夜には生霊が憑りつかない。また逆に、自分は一対一の関係性を持っていると確信している花散里にも生霊はつかない。
 この花散里の解釈も、色々な源氏の解釈本を読んだが、初めて腑に落ちた。花散里は自分と源氏の関係性は一対一だと信じ、他の女性は眼に入らなかった、これだと思う。もし花散里が自分を「既に男女の関係が無いのに、都合のいい時だけ、面倒なことを押し付けられる、人のいい女」と規定していたら、その人生に耐えられないと思う。自分と源氏の関係を一対一と捉え、押しも押されもせぬ妻の位置にある、と自己規定しているからこそ、自分の人生を生きることができたし、その自己規定によって、六条院の四つの屋敷の内の一つを占めることができたのだ。源氏から与えられたのではなく、彼女の自己規定によって地位と屋敷を得たのだと思った。
 浮舟については考え中。浮舟と女三の宮は類似点が多いと思う。これについてはまた色々な解釈を読んでいきたいと思う。

以下は自分の覚書である。(写経のようなもの)

P11〈源氏を日常のレベルで―その上、現代人の感覚で―見るのは、あまり意味がないことだけを指摘しておきたい。〉
P27〈その人の訊きたいのは、そのような(自然科学的な)普遍的な答えではなく、その人との関係において、そのことを納得する答えがほしいのである。そこに物語の必要性がある。〉
P28〈現在は、お仕着せの物語やイデオロギーの通用しない時代である。個人の自由ということを求めて人間が努力してきた結果このようになってきたのである。人間ひとりひとりが自由に「自分の物語」を創造できる。これは実にありがたく、興味深いことではないか。〉
P31〈個人主義はもともとキリスト教文化圏から生まれてきたものだが、個人主義が利己主義に陥らないように、キリスト教による厳しい倫理観がはたらいている。〉
〈日本人が欧米流の個人主義に従うとしても、キリスト教抜きで、安易に行うときは、単なる利己主義になってしまう。この弊害はすでにあちこちに見られている。しかし、本家の欧米でもこのような傾向が認められているようだ。〉
P32〈キリスト教などは信じられない、近代科学こそ信じられるという人があったとしても、すでに述べてきたことで明らかなように、「他人との関係」と「自分の死」ということに関しては、近代科学は答えをもっていないのだ。これらの答えるためには「物語」が必要である。〉

P42〈女性は(大女神)イナンナと同一化し、女神から流れでてくる女性的な霊の力を受容するために、女神の神殿における巫女であり、聖娼であるという役割を果たす。そこに訪ねてくるまったく未知の男性に対して、女神の化身として身をまかせるのである。/ここで非常に大切なことは、この(シュメール)文化において、霊性(スピリチュアリティ)と性(セクシュアリティ)がまったく分離しておらず、聖娼としての女性は、自分という身体の中の美と情熱に気づき、霊と性との共存する歓喜を味わうのである。ここで、男性はまったく未知の旅人であることが必要であり、男女の関係は個人的な愛を超えた結合の神秘として体験される。〉
P54〈アメリカのような父権社会において、女性が活躍していこうとすると、無意識のうちに、それは「父の物語」を生きていることになる。『神話にみる女性のイニシエーション』の著者、シルヴィア・ペレラはその本の冒頭に「社会的に成功を収めた女性である私たちは、通例『父の娘 daughters of the father』―つまり、男性本位の社会にうまく適応している女性―であり、私たちのものであった豊かな女性性の本能やエネルギー・パターンを拒絶してきました」と述べている。〉
P58〈父権意識のほうに少し偏りが生じてくると、男性は無人格のストレンジャーではなく、女性を「わがもの」にしようとしてそこに侵入していく。そしてその後は結婚の式にまで至ることなく、捨て去ってしまうということが生じる。また、女性のほうも父権の意識をもつようになれば、親たちのアレンジによって行われる男性の侵入を、怒りと悲しみによって受けとめることになって、それはシュメールの聖娼の儀式に語られる、歓びの感情とは逆のものになってしまう。〉
P59〈男女の合一は本来的には偉大なる女神との一体化である。それは「土にかえる」体験にもつながったであろうし、エクスタシーの言葉が「外に立つ」ことを意味するように、この世の外に立つことだったのではなかろうか。実際、女性のイニシエーションの聖娼の体験は、娘が死んで成人の女性として再生する、死と再生の体験だったのである。このような意味で、それに参加するものとしての「色好み」ということも高い評価を受けていたのであろう。〉
P65〈十二世紀ごろ、ロマンチック・ラブのはじまったころは、①恋愛している騎士と貴婦人は性関係をもってはならない ②もちろん二人の結婚は禁じられる ③恋人たちは常に情熱の焔に焼かれお互い同士を求めあう欲望に苦しまねばならない、とされていた。つまり、性から分離された精神的な愛、それを高めることが、ロマンチック・ラブとされたのである。〉
P66〈ユング派の分析家、ロバート・ジョンソンは、「私たち西洋の文化においては、ロマンチック・ラブは今や宗教に代わるものとして、男性も女性もそのなかに意味を求め、超越を求め、完全と歓喜とを求めています」と述べている。(…)ところが、実際に行ってみると、それがいかにむずかしいかがわかってきた。〉
P67〈適切な物語が見つからないのである。〉
P74〈できれば自分はどんな物語を生きているのか、それは他とどれほど異なるのかを自覚しているほうが、おもしろくもあるし、近所迷惑も少ないのではないだろうか。〉

P95〈歴史のつまらなさを彼女は「蛍」の巻で光源氏の口を借りて述べさせている。「物語」というものは、個人の経験した事柄を、普遍性へと接近させる。〉
P112〈深層心理学の表現を用いると、葵の上の無意識内の心的内容は、六条御息所の生霊という表現形態によって、もっとも適切に表現されている、ということになる。つまり、葵の上は無意識においては、六条御息所が源氏に対して感じたような恨みや怒りを強く感じていたのだが、彼女の誇り高さによって、それらを表面的に表すことはなかった。それがいま、六条御息所の生霊という形で顕在化してきていると考えるのである。〉
P113〈葵の上の願望は、彼女も知らぬ深いところで、源氏に対する恨みの感情に満ち、殺してやりたいほどのものとなっている。しかし、彼女は嫉妬の感情などは意識したかもしれないが、そこまで強い気持ちはおさえつけていたに違いない。しかし、そのような強い感情を六条御息所が生きているように、彼女には思えたことだろう。したがって、それは六条御息所の生霊という形をとって彼女に迫ってくるのだ。〉

P161〈人間が勢いこんで言いきるときは、だいたいそれと逆の心情が動いているときである。〉
P195〈源氏が両者(紫の上と明石の君)に対して適当な距離を常に保つことを心がけているので、三者のきわめて慎重な生き方をベースに、二等辺三角形が成立している。(…)このような二等辺三角形的安定を絶対に拒否するタイプの女性として、葵の上と六条御息所が存在していた。しかし、この二人とも死亡してしまって、源氏の生活を脅かさなかったが、六条御息所の生霊や死霊は、いつまでも源氏と源氏の周辺を悩ませたのであった。〉
P196〈源氏が他の女性と関係をもつことに対して、徹底的に嫉妬する役割を担って、このもののけは登場する。男と女の一対一関係信奉の権化である。〉
P203〈この(マンダラの)中で印象的な対立や類比について少し述べると(…)まず、葵の上と六条御息所を結ぶ線は強烈である。この二人は、このようなマンダラではなく、男女一対一の関係を望んでいた人物であることが特徴的で、そのような姿をマンダラの中心を貫徹する軸として置いているところが意味深い。(…)葵の上は、そのような態度の頑なさを、若い源氏に理解されないまま若死にしてしまうし、六条御息所は、そのような主張をもったもののけとして、源氏と関わる他の女性を苦しめるのである。/ここで、もののけという現象を現代的な観点から少し考えてみよう。(…)たとえば、夕顔にもののけがついたというのは、源氏と夕顔の無意識の動きが突発的に外に現れたとしか解釈のしようがない。〉
P204〈朧月夜は一夫一妻の人生観から、まったく自由に生きることを楽しんだ人と思えるが、その対極に花散里の姿を見ると、ひょっとして花散里は心ひそかに源氏との関係を、一対一関係と信じて暮らしていた人かなと思ったりする。他の女性たちの姿は、彼女の眼中にはなかったかもしれない。〉
P205〈女三の宮は明らかに源氏から離れていく。それまでに出家した女性たち、あるいは、源氏との性的関係を拒否した女性たちにも、その傾向はすでに見られた。つまり、光源氏という異性との関係において自己を規定することに反発が生じてきたのである。男性との関係において、自分は妻か母か娼か娘か、などと考えることなく、女性であること、を求めて紫式部はそのマンダラを深化させることを余儀なくされたのである。〉
P210〈紫の上はどこかで源氏の母のような気持ちで見ていたのではないか、と思われる。妻・母としての彼女の安泰な座は、揺るぎようがないように思われた。(…)ところが、心理的にはともかく、当時の身分感覚で言えば、女三の宮は本妻であることは確定的であり、これは、紫の上を娼の位置におとしめることを意味している。〉
P211〈紫の上の心は女三の宮の降嫁を知ったときに決まっていた。彼女は娼の世界に入るというよりは、もうこの世を離れていたのだ。娼の世界はしばしば聖なる世界に通じるものである。彼女はその世界に一人で入っていった。これまではなんと言っても源氏が拠りどころであった。しかし、長い経験の後に、いかに秀でているとは言え、一人の男性を拠りどころにして生きることの無意味さを彼女は感じたのに違いない。彼女は彼女一人であちらの世界に行くことを決意したのだ。〉拠りどころにして生きる→自分の全てを託す、と後では書かれている。
P212〈紫の上が、もうこの男に依りかからずに自分の道を歩めるとわかったころ、源氏こそが彼女に依りかかって生きていることが明らかになってきたのだ。(…)このときも六条御息所のもののけが現れ、源氏と紫の上の間にも、潜在的には一夫一妻への強い希求のあったことが明らかになる。〉
P215〈この住居マンダラをいかに考えるかが課題であるが、住居と春夏秋冬の結びつきは中国に起源があるようだ。(…)四季が同時共存しているわけで、竜宮城が時間の法則を超えた全体性を有することを示している。〉
P219〈非常に興味深いのは、源氏が彼の周囲の女性たちのことを紫の上に語ることである。そこでは他には語っていない秘密も語っているし、相当はっきりと性格の比較や論評までしている。(…)作者の己の分身に対する批評を、源氏の口を借りて紫の上に語るというパターンが生まれてきたのではなかろうか。〉

P235〈思わず行為し、言葉を発してみて、それによって自分の心の内がわかることもあったろう。〉
P237〈悲劇が柏木の場合であり、疎外が夕霧の場合である。(…)西洋のロマンチック・ラブの物語は、ほとんどが悲劇か結婚によって終わりとなっていることが多いのに気づくのである。ロマンチック・ラブの物語を結婚後も続けていくと、どこかで「悲劇と疎外」が生じるのではなかろうか。〉
P264〈二人は一日情痴の世界に浸った後、匂宮は心を残しつつ京に帰る。〉
P265〈匂宮は自分の心はあの緑のように年が経っても変わらないと歌を詠む。これに返して浮舟は、「たちばなの小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」と詠む。この歌から「浮舟」の名が由来するのだが、彼女の不安定な気持ちをよく表している。この家で二人は二日間を過ごすが、「かたはなるまで遊び戯れつつ暮らしたまふ」という表現に、その様子が偲ばれる。〉
P267〈ここで興味深いのは、浮舟の心の中で、こんなことだったら匂宮との関係を拒むべきだったとか、匂宮のひたむきな恋に溺れこんでいくときに、なんとかして薫との関係を切ろうとするとか、二人のうちのどちらかに決めようとする努力が、あるいは、決めなかったことの後悔がまったく語られないことである。彼女は徹底的な受動の人であり、それによって自分を死に追い込んでいく。〉
P272〈浮舟は母親の守りの鐘の響く中で、入水しようとしたのである。/浮舟の死は、大君の死と対照的である。大君が「父の娘」であるのに対して、浮舟は「母の娘」である。大君は薫に好意を抱きながらも、父の意志を体して、それが男女の仲になることを拒否しとおし、その延長として、食事までも拒否して世を去っていった。/これに対して浮舟はきわめて受動的であり、結局は不幸になることが見えすいているのに、二人の男性を受けいれてしまう。そして、匂宮との関係に溺れこんでいくところは、大君は絶対に受けいれられないところであろう。/しかし、どう考えるにしろ、人間は自分の「身体(ボディ)」を否定しては生きていけないのだ。(…)あまりに父性を欠いた身体性への偏りは、結局は、身体そのものを否定する自殺に追いこまれるというパラドックスを内包している。〉
P283〈浮舟は、ただ来るものをすべて受けいれたまでで、薫や匂宮との関係において何かになろう、などという意志もなかったのではなかろうか。男との関係において自己を規定することなど考えるまでに、ひたすらすべてを受けいれ、死をさえ受けいれるほどであった。/再生後の浮舟の厳しさは、見事なものである。薫とか小君とかの関係によってではなく、自分の中から生じてくるものを基盤にもって個として生きる。〉
P284〈このような個としての女性の物語は(…)現代においては「男女にかかわらず」意味をもつのではないかとも思う。〉

岩波書店 2016.6. 1400円+税 (小学館 2000.7.を元とする)



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