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『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』池内紀

 トーマス・マンの亡命中の日記を池内紀が解説したもの。マンは追放同然で亡命し、海外からナチス・ドイツを糾弾する行動をとり続けた。マンの日記を引用しつつ、同時代の人々に対する目線を池内が解説している所が面白かった。例えばレマルクに対して池内はこう書く。

「ころがりこんできた膨大な印税をレマルクは上手に運用した。スイスの銀行に預け、かたわら一九三一年、スイスの景勝地アスコーナ近傍に別荘を飼いこみ、地名から「ボルト・ロンコの家」と名づけて第二の住居にした。」

 『西部戦線異状なし』の作家というイメージが壊れる感じの書き方だ。あるいはヒトラーのワーグナーへの傾倒に追随する人々に対して。

 「そんなマンにとって、並外れた芸術家の意義深い作品が、一つの政党のキャンペーン音楽になっていくのは我慢ならないことだった。しかもナチズムが影響力をひろげるにつれ、楽劇の素材になったゲルマン神話を党の主張する「ドイツ文化」の手本とみなすかたわら、ワーグナーを自分たちの精神的先駆者として見さかいなく濫用しはじめた。七月の音楽祭シーズンになると、ヒトラーに追従するナチス幹部たちがいっせいにバイロイト詣でをして、さながらナチス行政機構が移動したかのようだった。」

 トランプが自分の政治集会にローリング・ストーンズの音楽を使っていたことを連想した。(これにはストーンズ側からストップがかかったが。)ブレヒトとの折り合いの悪さも興味深い。

 「マンとブレヒトとは、しょせんは折り合わぬ二人だったのだろう。「劇作家」ということにすら権威的な匂いを感じ、自分を「台本屋」と称したブレヒトにとって、マンは正装した権威そのもの、鼻もちならぬ保守タイプであって、つねづね「立て襟」のあだ名で呼んでいた。それはロサンゼルスの亡命者世界では知れわたっており、マンも耳にしたにちがいない。こころなしか日記における黙殺の度合いが、傷ついた自尊心と、アウトロー的革ジャンへの嫌悪の深さを示している。」

 生まれ故郷のリューベックが連合軍に空爆された件から池内の筆はマンの生い立ちをたどっていく。

 「ギムナジウムの落第生は注意深くながめていた。新しい交通と流通の手段である鉄道の時代がきて、日ごとに港町がさびれていく。商域のともに商売の形態も変わっていって、目先の早い新興組がそそくさと商いの模様替えをするなかで、昔かたぎの誇り高いタイプは、しだいに取りのこされていくしかない。」

 「白バラ」について。あの歌はこの本がネタ本か。

 「一九四三年二月十八日、ハンス・ショル、ゾフィー・ショルが逮捕された。ハンスはミュンヘン大学医学部学生、二十四歳。ゾフィーは生物学と哲学を学んでいた。二十一歳。「白バラ」はこの二人を中心にして、友人や知人たちをメンバーにしていた。 

 マンはナチスの罪だけを糾弾したのではなかった。

 「ドイツの国民すべてが共犯の罪を背負うことの最初のアピールである。マンは早くから、ヒトラー体制を支えていたものが強制収容所とゲシュタポという「装置」であることを見通していた。そこから巧みなシステムが編み上げられた。つまり、当事者が表に現れない。仕方がないと呟きながら、おおかたの市民は良心を抑えつけ、口を閉ざしている。」

 マッカーシズムにナチズムと同じ心理を見る。

 「「赤狩り」旋風がすでに手がつけられないまでに吹き荒れていた。進歩派、リベラリストとされる人々が次々と召喚され、聴聞を受け、一方的に「売国奴」の烙印を捺されて告訴されていく。私生活に立ち入ってマスコミが大々的に報道した。それは一九三三年、ドイツでナチ党が権力の座につき、反ナチスの人々の糾弾をはじめた状況とそっくりだった。新しい権力に迎合するジャーナリズム、またそれにすり寄っていく知識人らの動向までも瓜二つ。」

 最も面白かったのはカフカの人気に対するマンの反応だ。

 「もしかすると、おぼろげな予感があったのかもしれない。まったく自分の知ることのない人物が、およそ異質の小説を書いた。無名のまま忘却寸前だったのが、にわかにあらわれ、広範な読者を見出している。五十余年のキャリアをもつノーベル賞作家には不審でならない。自分とは何がどうちがうのか。もしこの異質の作家が「現代」ならば、自分は同じ位置にいることはできず、すでに終わった過去の作家に甘んじるしかないではないか。つねに「正装」を崩さなかった誇り高い人に、そのような屈辱が堪えられようか。」

 「自分とは何がどうちがうのか」という問い。世代交代はいつの世にも旧世代に重い。この場合、旧世代が存命で、新世代が既に逝去しているというのが皮肉に感じられた。

中公新書 2017年8月  820円+税

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