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池田はるみ『亀さんゐない』

 第七歌集 2015年から2020年までの作品を収める。60代後半から70代へ差しかかる、穏やかな日々を描く。親しい人々や、「亀さん」に代表される顔見知りが、他界などで徐々に周りから去って行く寂しさも詠われる。東京の下町の風景も丁寧に描かれる。

いまわれは何をしてゐるのだらう電話・パソコン・テレビのなにを

 二句三句が十一音。なだらかに読み下せるが、字足らずだ。何か足りない、途方に暮れた感じを表す。住居のリフォームの際の仮住まいとその後の住居への再転居。ITの進化についていけない老年のオロオロした様子を表す。面白おかしく詠っているが、自分を無くすようなあてどなさ、心もとなさがよく伝わってくる。

眠りつつ老いてゆくとは思はぬが今日もひらたくわれは眠りぬ

 「ひらたく」が一首の中心。眠っているうちに時間はどんどん過ぎて行く。自覚は無くとも、起きていても寝ていても老いてゆく。もちろん、自覚があるからこその「思はぬが」、であろう。身体をひらたくして今日も眠る。心身を休めている刹那も心身は老いてゆく。 

さうだつた引いたらあかん 我もまたしつかり言葉押しゆくが良し

 相撲部屋を見に来た作者。一升瓶を提げて朝稽古を見ているというのだから、単なる一見さんの見学ではない。引かずに押してゆく力士の姿を見て、作者も「さうだつた」と自分の覚悟を悟り直す。引いたら「あかん」の関西弁が、関西出身で長く東京に暮らす作者の本音の部分を示す。自分も短歌作者として言葉を押してゆこう、自分よ、押してゆくが良し、と心に刻んでいるのだ。

亀さんの精一杯は進むだけ隅にも寄れず急ぎもできず

 手押し車に沈むようにして進んでゆく「亀さん」。亀さんというのは作者が勝手にそう呼んでいるだけ。よく見かけるというだけで話したことも無い相手だ。この歌集のタイトルにもなり、「亀さんゐない」「壁」という二つの連作のモチーフにもなっている。どこの誰とも分からぬ老人。いつも出勤の人々で殺気立っている道をのろのろと進んで行く。誰もに迷惑に思われ、邪魔だと思われている。隅に寄らないのではなく、寄れない、ゆっくり進んでいるのではなく、急げないのだ。

「年取つてひとり」はみんなさうだよとうしろ姿のいふがごとしも

 これも「亀さん」を描いた歌。仕事中心に速いスピードで人々が暮らす社会。そんな世にのろのろ進む老人の後ろ姿は、人間の孤独さを象徴しているのではないか。何を考えているか誰にも理解されないまま、ひとりで老いることを作者に見せてくれる亀さん。本当は亀さんと同じだけの孤独を誰もが抱えているのだ。ただ気づこうとしないだけで。

青空は怖いものなり裕子さん、命の減つた今ならわかる

 晩年の河野裕子は青空が怖いという歌を多く作った。一般的には青空は爽やかで、明るく、希望に満ちたものだ。河野の感覚はある種特殊かも知れない。しかし池田は、その河野の気持ちが今実感できると言う。齢を重ね、命の残り時間が減った今なら、河野の感じた怖さが分かる、と。死者との会話を通じて、人は生と死の間を覗くのではないだろうか。

これの夜を苦しみをらむ若きひと 手の打ちやうもない時あるよ

 老いてゆくことの苦しさや寂しさもあるが、若いがゆえの苦しみもある。いや、むしろそちらの方が人間の苦しみの主なものとして扱われているだろう。今日今夜苦しんでいるであろう若者に対して、下句のように暖かく語りかける。「これの夜」と限っているのだから、特定の誰かかも知れないが、全ての苦しむ若者へのエールだとも取れよう。

あつといふ間ではないけれどたくさんが散つていつたよさくらの花が

 満開になってから散るまでに少し時間がある。だからあっという間に散ったのではない。けれどたくさんが散っていった。その桜の花に、やさしい視線とおだやかな哀惜の念を送る作者。桜が散ることに先の戦争で死んでいった人を重ねるのは通俗かも知れないが、「が」の重なりに噛み締めるような真情がある。ひらがな多目の、語りかけるような、つぶやくような会話体が、無常感を伝えてくれる。

この地にも歳月にもあるつぶらな目あなつくづくと見られてわれら

 場所と時間。そこに人の記憶は刻まれる。その土地と時間に「つぶらな目」があり、つくづくと見られている、という把握に驚く。つぶらな目だから、他意も何も無い、ただ見つめる目だ。それも自分一人ではなく、夫と夫の実家の家族を含めての人々が見られている。古い、大きな時間の中の、過ぎ去っていった人々。歴史とは紙に書かれた文字や数字ではなく、その地に生き、歳月を過ごした人々の息遣いなのだ。その息が自分にもかかる。世を去った人の息に押されるような感覚。

からだからある日ことりと音がせりさびしさの芯がぬけてしまうた

 さびしい、けれどそれが極まってさびしさの「芯がぬけ」たと表現する。それも身体から音を立てて抜けた、というのだ。さびしさがもはや感情でも体感でも感受できないほど大きくなった。自分のさびしさが自分の存在より大きくなってしまったのだ。

短歌研究社 2020年9月 3000円+税


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