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奥田亡羊『花』(砂子屋書房)

 第三歌集。約三四〇首と詩一首を収める。愛情や家族を詠った歌に不思議な諦念を感じる。映像に関わる仕事の歌、高校生の自立支援の歌などの素材が特徴的だった。全Ⅴ章の内、Ⅲ章のみ一行書きで、残りの章は読みの切れに従って二行分ち書きにしてある。読みやすさのためと後書きに記されているが、どこか通常の短歌と違う息遣いを感じて、表記の持つ詩形への影響力を考えさせられた。

にんげんの体からめるパズルより
お前のほそき腕を引きぬく

 性愛の場面。パズルのように絡み合った体と体。そこから相手の腕を引きぬく。行為の終りだからではないだろう。さらなる深い行為へ沈み込むためだ。相手の意志の感じられない、あるいは感じさせない一首となっている。

花よりも葉の斑つやめく石蕗の
暗きいのちを抱かんとする

 上句は序詞と取った。花よりも葉。一面緑の葉よりも斑入りの葉。暗い方へ裏の方へ意識が行くように見えながら、そちらの方がつやめいているのだと把握している。けれど結局到達するのは「暗きいのち」という観念。暗く艶めいている命を抱こうとする主体も、暗い方へ心を向け、また、暗い中の艶めきを自らの中に持っているのだろう。

よるべなく体ほろびてゆくものを
顔のかたちの浮く聖骸布

 キリスト教の伝説の布、聖骸布。イエスの亡骸を包んでいた布に、その風貌が転写されているように見えるもの。特に顔の部分が有名だ。包まれていたイエスの、人間としての身体は亡びたが、布に姿が残っている。自身の身体を強く意識する場面、例えば性愛の場面に関連して浮かんだ連想だろう。今愛し合っているこの身体もいずれは亡びる。聖骸布のように何か自分の存在を残すものはあるのだろうか、という思いだ。

暮るる世界に靴のみ白く歩みゆくわれらか
とうに腓(こむら)つかれて

 自分達以外何も存在しないような、あるいは自分達を疎外するような、暮れていく世界。そこを歩いてゆく「われら」。歩いている自分たちを遠くから見ているような視点がある。その視点からは、全身がぼんやり見える二人の靴の白さのみのがくっきりと浮き立つように見える。その後、視点は歩いている自分自身に戻る。もうとっくに腓が疲れて、足も攣りそうだ。しかし歩みを止めて安らげる場所はどこにも無いのだ。

仰向けに空を眺めている夢に
舟底をする砂の音せり

 夢の最初の方はただ仰向けに空を眺めていたのだろう。やがて自分がボートのような小舟に乗って、仰向いていたのだと分かる。川なり池なりに浮かんでいたはずだが、次第に岸へと寄せられて行ったようだ。そのことが舟底を擦る砂の音で分かる。岸について小舟が水底を擦っている。夢の中でも、どこか行き止まり感がある。開放的な上句から、閉塞的な下句へ、視覚聴覚体感を使って、巧みに繋いでいる。

高校生に見せんとつなぐ映像の
ローマ史の空青々として

 定時制高校の生徒の自立支援の仕事をしていた主体が、久しぶりに古巣のテレビの仕事に戻ってきた。ローマ史の映像を編集しながら、自分の関わった生徒たち、多くは生活に困難を抱える若者たちを思ったのだろう。彼らに見せたい、そんな思いで作る映像の空は青々としている。とても明るく、読んでいて気持ちが前向きになる歌。

前の世も来む世も離ればなれにて子を抱きつつ見るお月さま
 自らの子を抱いて月を見ている。前世も、また来世も親子として出会うことは無いだろう。今、今生だけが親子なのだ。縁の不思議さを思いつつ、子を抱く。結句の子供に合わせた「お月さま」という言い方から、主体の心が寂しく澄みわたる様子が伝わる。

転生をなさざるものは洗われて月のあかるき砂浜にあり 
 人間の輪廻転生を思っているのだろう。輪廻転生を繰り返すのは苦しみであると説かれているが、信仰の薄い者として、自分も周りの者も輪廻転生の苦しみから逃れられないとの自覚があるのではないか。対して、物体には転生は無い。元は木であったものが、海波に洗われて流木となって海岸に流れ着き、月の明るい海岸で照らされている。その清々しさ。そのようになりたい、そのようにはなれないという主体の気持ちの感じられる一首だ。

石の上に春の蜥蜴の動かざり
苦しみたりと人づてに聞く

 上句は景。ちょろちょろとしていた蜥蜴がひと時不動の姿勢を取っている。その時、人づてに聞いた「苦しみたり」という話を思い出す。それは、前後の歌から、亡くなった知人のことと考えられる。安らかにではなく、苦しみながら亡くなった、ということだろう。不動の蜥蜴と対照的に、苦しんで死んでいった人。その個人のことではなく、何かに苦しんだ人、と広く取る事もできる。

笑う子におりおり浮かび鎮もれる
水の面のような表情

 水面に石などを投げると水紋が広がり、やがて収まる。そのように子の表情に時々浮かんでは鎮もる表情。笑いだけではないだろう。笑ったあとのふとためらうような、場合によっては虚無のような表情も言っているのだろう。子と楽しく過ごしているように見えながら、子の持つ「個」の中に入り込めない親の気持ちを感じているのだ。

砂子屋書房 2021.12. 3000円+税

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