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大口玲子『ザベリオ』

第六歌集 大口玲子の歌を読んで思うのは、河野裕子との近さだ。語彙が似ているというのもあるが、物事の感受のしかたに共通項があるように思うのだ。対象に深く強く打ち込む心と、広い物の見方にも相通じるものを感じる。タイトルの「ザベリオ」は宣教師フランシスコ・ザビエルのこと。「Xavier」のイタリア語読みで、日本のカトリック教会では伝統的に使われていたとのことだ。

かたつむりつの出すまでを子と待てるこの世の時間長くはかなし

 かたつむりが角を出すまでの時間と言えば、ずいぶん短いものだろう。しかし待っていると長く感じられる。幼い子供と一緒に息を詰めるようにしてかたつむりを見守っている時の間。それを長いけれども同時にはかないと捉えている。未来の自分から見て、この長い時間は、取り返しがつかないほどあっという間に過ぎた、はかない時間と思えるだろう、意識のそんな先取りが感じられる。

「サンイチイチのイベント」と声に出す人が集客の多寡を言ひつのりゆく

 東日本大震災を忘れないために、また被災者を支援するために、イベントが行われているのだろう。しかし、被災者の一人である大口にとって、それを「イベント」と呼ぶこと自体に既に違和感があるのだ。まして軽く「サンイチイチのイベント」などとは。しかしそれを声に出す人に悪気があるわけではなく、行うからにはできるだけ多くの人に来てほしいと思っているだけなのだろう。前向きな態度ともいえるが、集客にのみ関心があるような無神経さ、その鈍感な善意に作者はひどく傷ついている。自分の人生を変えてしまった災害は、その人にとってはイベントのきっかけになったちょっとした事故、今となっては「サンイチイチ」という記号にしか過ぎないのだ。「言ひつのりゆく」にはその人に対するうとましさ、さらに軽い憎しみすら感じられる。そしてその人がおそらく「世間」を代弁していることを、作者は思い知らされたのだ。

体より心まぢかくあることに愕然とせり水仙をかぐ

 身体はどこにあるのだろう。お互い近くにいるのか、離れているのか。歌からは分からない。しかし、心は非常に近くある。そしてそのことに「愕然と」するほど作者は驚いている。どれほど人の心は、他者の心と近づけるのだろうか。

菜の花は何を忘れて この春もひたむきに黄をこぼしつつ咲く

 「黄をこぼしつつ」が印象的。呆けたように咲いている菜の花。何か忘れたいことを忘れてしまったのだろう。忘れたいことを忘れられない作者はそんな菜の花の無心を眺めている。広々とした菜の花畑と人間の小さな心の対比。

人間は取り返しつかぬことをして海に赦されたいと願って

 取り返しのつかないこと、は色々考えられるが、前後の歌から戦争を指すと取った。詠わている場所から沖縄戦と思う。沖縄の海に土に散って行った多くの命。それでも自然に囲まれた時、自然に赦されたいと思うのが人間の弱さだ。つぶやくような口調が寂しい。 

報道されぬデモをみづから撮影すブーゲンビリアの花も一緒に

 政権に反対するデモは報道されないことが多い。政権とマスメディアの癒着を一言で言い表している。今はSNSで自分で発信することができる。自撮りする画面に南国の花が映り込む。花を写すことで心の荒みを和らげたいのだ。

われをもつとも傷つけることができるのはわが息子 桃に指をぬらして

 桃を掴んで食べている息子。夢中で食べているのだろう。作者はその息子こそが自分の一番の弱みであることを知っている。どんなに他人から傷つけられようとも、息子が心の最後の拠り所となってくれる。しかし、息子から傷つけられた時は、救いも癒しも無いのだ。

われはまだ地の世にあれば苦しみて斯くも地の世の善にこだはる

 『地の世』は竹山広の歌集名だが、ここでは、生きてまだこの世に、地上にいる、という意味に取った。善や正義が行われ難いこの世。その善が行われるようにこだわる作者。その善を見ない限り、信仰によっても心の平安が得られないのではないか。

赦すこと難しければ今朝の秋ふかく帽子をかぶり出でゆく

 人を赦すことは難しい。神のみが人を赦せるのか。信仰の無い筆者には分からない。作者はその心を隠すように帽子を深くかぶって家を出て行くのだ。

雨 わたしはわたしの言葉をへらしたい。ただ濡れているひるがほの前で

 一字空け、句点。それらからブツ切れの心の断片が見える。雨にただ濡れるだけの昼顔。その寡黙を願っても得られない、人間の自分。言葉を減らし、思考と思惟を減らし、祈りのみで心を満たしたい。しかし、その願いを叶えるのは難しいのだ。

青磁社 2019年5月 2600円+税

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