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優しさについて考えてみたこと

「本当の意味での優しさって何だろう?」

こちらの記事を読み、自分なりに解釈してみようと思います。


ももまろさんの記事は、人の心の動きや人生の価値観、または出来事について、サラッと読める内容と文字数にまとめられているのが魅力です。


今回気に留めた記事は
【優しい法治国家の言い訳「関係性」】
要約すると、「優しい」と思われる言動が、与える側と受け入れる側の関係性によって評価が分かれてしまう・・という内容でした。それを前提に書き手のももまろさんは、《他者からの「優しい」を素直に有り難いと受け入れる人間になりたい》と結ばれています。


ももまろさんの考え方をもっと深く知りたいという方には、更に本文を読んでいただくとして、「優しさ」について私の経験談を通し違う視点から書いてみようと思います。


仕事の中で経験したこと

看護師1年目の22歳、内科病棟で勤務していたころ、50代後半の脳梗塞後遺症で半身麻痺の患者さんを受け持ちました。退院に向けて毎日リハビリ室へ移動しますが、ベッドから車いすへの移動の際、何の躊躇いもなくスリッパから靴への履き替えを手伝っている私がいました。

片麻痺で手足が不自由な患者さんの靴の履き替えを手伝うこと・・一見すると「優しい」と思われますが、後日そうではない事に気付きます。先輩から「退院後の患者さんの生活を考えたら自分で出来る様に促した方がいい」と指摘を受けたからです。

これに関しては、看護アセスメントの浅はかさと経験値の少なさも問題になりますが、実際に私自身は「何か手伝うことが優しさ」と勘違いしている部分があったと思います。

その場その場で、困っている人に手を差し伸べることイコール優しさ・・それが正しい場合とそうでない場合があるにも関わらず、先に行動に移してしまう。無意識ですが、それが優しさであり「当然」と思い込んでいました。


優しさの本質とは

「表面的な優しさ」とは、目の前で困っている人に直ぐに手を差し伸べることかもしれません。

この場合、患者さん本人が「自分でやります」と意思表示されるなら問題ありませんが、前述した患者さんのケースで言うなら、退院後の生活を見据えて「手出しせず、ただ見守る」こちらが本当の意味での優しさになります。

一見すると、「冷たい」と捉えられる姿勢ですが、別な言葉で表現するなら「厳しさを持つ深い優しさ」でしょうか。その場に和やかさを出しつつ、見守れるのが一番いいですね。

ケースによっては、「直ぐに手を差し伸べること」が何の問題もない優しさに繋がりますが、その状況によっては「優しさ」が善意とは真逆の結果に繋がる可能性も理解しなければいけない事例でした。

ももまろさんの記事からヒントを得て「優しさ」について経験談からの考察を述べてみました。


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