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【極真カラテ創始者】大山倍達の生涯

みなさんは、直接打撃制(フルコンタクト)の空手団体である極真会館を創設し、数々の名選手を育て上げて絶大な影響力を誇った空手家・大山倍達をご存知でしょうか?

大山は、「武の真髄を極める」として極真会館を立ち上げ、世界中に支部を持つ空手界の一大勢力に成長させました。

また、自身は大人気作品『空手バカ一代』の主人公となり、一躍空手界の風雲児となりました。

今回は、空手の普及に尽力して全世界に極真ブームを巻き起こし、日本の空手界に革新を起こした立役者、大山倍達の生涯を解説します。

【生い立ち】

大山倍達(韓国名:崔 倍達)は1923年(大正12年)、日本統治時代の朝鮮半島・全羅北道に生まれました。

いたずら好きでガキ大将だった大山は、山で捕まえた蛇を学校へ持って行き、気に食わない生徒の机の中に入れたりして遊んでいました。

その後、「親の援助は一切受けない」という条件で朝鮮半島を飛び出した大山は、16歳の頃(14歳とも)、日本一の軍人になるために山梨県の山梨航空技術学校(現:日本航空高等学校)に入学します。

寮に入った大山ですが、出身地の違いといった理由で衝突が絶えず、喧嘩に明け暮れる日々を送ります。

喧嘩三昧のなかでも、士官になることを夢見ていた大山は死に物狂いで勉強し、陸軍士官学校を受験します。

しかし、結果は不合格となり、大山は大きな挫折を経験しました。

失意の大山は、東京へ行くこととなります。

【木村政彦】

1940年(昭和15年)、拓殖大学の学生であった木村政彦が柔道界最高の栄誉である天覧試合優勝を成し遂げました。

天覧試合で優勝した木村政彦(中央左)

これに感銘を受けた大山は、木村と同じ拓殖大学に進みました(※拓大への進学記録は確認できないとの説も)。

拓殖大学に進んだ理由について、大山はこう語っています。

「なぜ拓殖大学に入ったかというと、拓大には木村政彦がいたんだよ。私が理想的な人物であるとして追及したものは宮本武蔵であるけれども、その宮本武蔵にひっかけて昭和の宮本武蔵があるとするならば木村政彦であった」

(『真説 大山倍達』)

木村政彦についてはこのように語っています。

「いやあ、木村は強かったよ。もう、本当に強かったよ。(大勢がいる会場に)木村がピタッと行ったら、場内が一遍に静かになるのよ。そして木村政彦のところへ来て、相手の選手がもう怖いもんだから、先に頼むわけですよ、『あの、ひとつお手柔らかにお願いします』と。もうすでに相手は負けてるよ、勝負に」
「木村は全盛時代、強かった。『ヘーシンク(1964年の東京五輪金メダリスト)より強いと思うか?』というのがいたけどね、いやいやあの人をね、ヘーシンクであろうとなんであろうとあの人を、柔道着を着て抑え込める人は一人もいない」

同上

大山は空手に興味を抱き、船越義珍(松濤館流の事実上の開祖)が主宰する船越道場の門を叩きます。

船越義珍

船越道場には3年在籍し、二段の段位を允許されました。

また、全日本空手道剛柔会の創始者・山口剛玄からも空手を学んだとされています。

日本が第二次世界大戦に敗れた後の1946年(昭和21年)、大山は早稲田大学高等師範部体育科に入学します(後に中退)。

また、敗戦により日本が朝鮮半島から撤退し、大韓民国が建国されたことにより、大山は韓国籍となりました。

その後大山は1968年(昭和43年)に日本国籍を取得し、通称名の「大山倍達」を本名として登録しています。

【空手日本一】

早稲田大学に入った大山は、日本にやってきた進駐軍を叩いてまわりました。

その理由を大山はこのように語っています。

「私がこの時義憤を感じたのはね、あまりにも急激にアメリカに対して媚びを売る人間が多くなったということ。戦争に敗けたから仕方がないけれども、私が受けた教育と社会があまりにも矛盾していた。焼け跡に進駐軍がジープで来て、(チョコレートがもらえるから)そこに日本人の女の子が群がっている。そして(強姦など)何か問題が起きて、『助けて』と言っても誰も助けない。私が進駐軍を叩いて歩いたのはね、こういうことに義憤を感じたからなんだよ」

同上

1947年、大山は京都で開催された戦後初の全日本空手道選手権大会で優勝します。

24歳の大山は、圧倒的な強さで大会を制したのです。

この優勝に全く満足しなかった大山は、空手に生涯をかける決意をし、清澄山にて1948年4月から1年8カ月にわたる山籠り修行を敢行します。

下山した1950年(昭和25年)11月には、千葉県館山で猛牛との対決を行い、47頭の牛を倒します(うち4頭は即死とされる)。

1952年(昭和27年)には、シカゴの空手協会に招かれて渡米し、全米各地を回って空手の演武と指導を行いました。

この間、プロレスラーやプロボクサーなどと真剣勝負を繰り広げ、7戦全勝したとされています。※アメリカでの「真剣勝負」については諸説あり

【大山倍達と“昭和の巌流島”】

1954年(昭和29年)12月、「昭和の巌流島」と呼ばれる歴史的な一戦が行われました。

プロレス日本一を決める闘い、「力道山 vs 木村政彦」です。

この試合は、木村のある発言により実現しました。

この頃、力道山と木村はプロレスでタッグを組み、シャープ兄弟と全国を連戦して大人気となっていました。

シャープ兄弟

ただ、シャープ兄弟との戦いでは、木村はいつも負け役を担わされていました。

窮地に陥った木村を力道山が空手チョップで救いだし、最終的に力道山が相手を倒すという一連の展開に木村は嫌気がさし、力道山との間に亀裂が生じていました。

当時はまだ日本が焼け野原となった1945年の敗戦から10年も経っていません。

戦後復興中であった日本国民にとって、外国人レスラーを豪快に倒す力道山の姿はヒーローそのものでした。

街頭テレビに群がる人々

ショー要素の強いプロレスの試合にはいわゆる「演出」がありますが、この頃は日本のプロレス黎明期であり、人々はプロレスを真剣勝負のスポーツとして捉えていました。

空手チョップと繰り出す力道山

朝日新聞や毎日新聞などの一般の新聞でも「真剣勝負」として試合結果を報じていました。

そのため人々は、木村はいつも負けているが、力道山はいつも強いという目で見るようになりました。

そして木村は、このように発言しました。

「力道山はジェスチャーの大きい選手で実力がない。真剣勝負なら私と問題にならない」

この発言に対して、力道山も木村と闘う意向を示しました。

木村は柔道で全日本選手権や天覧試合を制し、15年無敗という大記録を打ち立て、“異種格闘技戦”では敵地ブラジルでエリオ・グレイシー(グレイシー柔術創始者)を撃破するという格闘技の実力者です。

エリオ・グレイシーの腕を極める木村

一方の力道山は大相撲で関脇まで上り詰め、プロレス界で圧倒的人気を得ていたヒーローです。

まさに「昭和の巌流島」と呼ぶにふさわしい試合ではありましたが、木村はこの一戦をあくまでプロレスと捉えていました。

事実、木村は試合の前日でも大酒を飲んでいました。一方の力道山は入念に練習を積み、試合の準備をしていました。

試合のルールを決めるために、事前に両陣営で席を設けましたが、そこでは木村の当身は禁止する一方で力道山の空手チョップは許されるなど、力道山側に有利なルールとなりました。

また、この試合は61分3本勝負で行い、1本目は木村、2本目は力道山、そして3本目は時間切れとして引き分けに持っていくいわゆるブック(台本)ありのプロレスの試合となっていました。

こうして1954年12月22日、蔵前国技館にて「昭和の巌流島」と言われる一戦が実現しました。

「日本一」を決める闘いということで試合前から大いに盛り上がり、当日は大勢の警官が会場周辺を警備に当たっていました。

ついにゴングが鳴り、大歓声のなか試合が始まります。お互いに相手の技を受け、投げたり投げられたりするなど通常のプロレスの試合として進んでいきました。

試合開始から15分が経とうとしたころ、プロレス史に残る大事件が起こります。

木村が放った蹴りが力道山の下腹部付近に当たりました。

すると力道山が血相を変え、反則技となる右ストレートをいきなり木村の顎に見舞いました。

急所である顎にパンチを放つ力道山

突然の出来事にうろたえる木村に対し、力道山は構わず本気の空手チョップを顔面に連打します。

思わず崩れ落ちる木村に対し、力道山は容赦なく木村の顔面を蹴り上げ、踏みつけや頸動脈への平手打ちを行います。

朦朧とするなか何とか立ち上がり、レフェリーの様子をうかがう木村に対し、力道山はなおも躊躇なく顔面攻撃を行い、最後は左の張り手を顎に入れ、木村を失神させました。

15分49秒、ノックアウトにより試合は決着しました。

日本中が注目した巌流島決戦は、力道山が突然「セメント」を仕掛け、一方的に木村をノックアウトするという後味の悪い結末となりました。

「セメント」とはいわゆる真剣勝負のことで、「ガチンコ」や「シュート」などとも呼ばれます。

ショー要素の強い通常のプロレスの試合では、顎など相手の急所への本気の攻撃は行いませんし、反則とされています。

「演出」を無視して一方的に本気の攻撃を仕掛けることを、プロレスでは「セメント」「ガチンコ」「シュート」と呼びますが、ある種卑怯なやり方とされています。

力道山の攻撃により、木村の前歯は2本折られ、瞼は切られ、マットには血だまりができました。

失神する木村

こうして、日本中が注目した一戦は凄惨なセメントマッチとなりました。

力道山のパートナーを務めたこともある遠藤幸吉はのちにこう証言しています。

「力道山は、試合の初めからそういう機会を待っていた」「ケンカ・ファイトは、成り行きでそうなったのではなく、初めから力道山の作戦だったのである」

(『プロレス30年 初めて言います』)

この歴史的な一戦を大山はリングサイドで見ていました。

大山が憧れた男であり、拓殖大学の先輩でもある木村がやられた瞬間、大山は激怒して上着を脱ぎ捨て、リング上の力道山にこう叫びました。

「なんだお前、力道!それじゃプロレスじゃなくて喧嘩じゃないか」「喧嘩ならお前、俺が相手だ」

力道山に挑もうとする大山を周囲の友人らが羽交い締めにして必死に制止したと言われています。

この光景をリングサイドで目撃したという演芸評論家の小島貞二は、このように述べています。

「もし、その時、大山が躍り上がり、もし力道山が、『よし、来い』と身構えたとしたら、おそらく別の血がマットの上に散っていただろう」

(『力道山以前の力道山』)

大山は「敵討ち」をすべく力道山をつけ狙いますが、ついに2人の対決は実現しませんでした。

【極真会館】

1954年(昭和29年)、大山は東京都・目白に剛柔流の流れを汲む大山道場を設立しました。

大山道場の特色は、実戦における強さの向上を目的としたことにありました。

それまで一般的であった他流派の寸止め空手とは一線を画し、相手の体に直接攻撃を当てる組手を行いました。

また、手や肘による顔面殴打や投げ技・関節技を認め、現在の総合格闘技に近い流派でもありました。

基礎体力作りやウエイトトレーニングを本格的に取り入れ、他流派とは一線を画す空手として注目を集めました。

1958年(昭和33年)、成増に国内初となる支部道場が開設され、支部長には黒崎健時が就任します。

1959年(昭和34年)、大山道場で修行した者として初めて岡田博文に黒帯(初段)が允許されました。

1964年(昭和39年)1月、大山道場から黒崎健時・中村忠・藤平昭雄の3人がタイに遠征し、ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手とムエタイルールで戦うという異種格闘技戦を敢行しました。

黒崎は敗北しましたが中村と藤平はKO勝ちを収め、3vs3の対抗戦に2勝1敗で勝ち越し、大山道場の強さを知らしめました。

そしてこの年、「武の真髄を極める」を旨とし、相手に実際に技を当てる直接打撃制(フルコンタクト)の空手団体「国際空手道連盟 極真会館」を設立します。

1969年(昭和44年)、極真会館は「第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(全日本選手権)」を開始します。

この大会は2つの点で画期的でした。

1つ目は、直接打撃制(フルコンタクト)によるトーナメント形式で最強を決める大会であった点です。

今となっては、フルコンタクトの空手大会はさまざまな流派が開催していますが、当時は寸止め空手が主流でした。

それを証拠に、フルコンタクトに危惧を抱いた会場側が懸念を示し、極真はなかなか試合会場を確保できませんでした。

最終的に、極真側はその頃、沢村忠の活躍で人気が急上昇していたキックボクシングを例にあげ、フルコンタクトの安全性を説明し、会場使用の許可を得ています。

2つ目は、他流派の参加を認めた「オープン制」です。

全日本選手権では空手の他流だけでなく、ボクシングやキックボクシング、ムエタイといった他の格闘技からの参戦も呼びかけ、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していました。

こうした斬新な手法により極真はマスコミでも広く取り上げられ、第1回全日本選手権は7000人の観衆を集め、大盛況で幕を閉じました。

そして、1975年(昭和50年)からは、4年に1度の頻度で開催する「オープントーナメント全世界空手道選手権大会(世界選手権)」も始まります。

【『空手バカ一代』】

1971年(昭和46年)、『巨人の星』や『あしたのジョー』などの名作で知られる漫画原作者・梶原一騎により、「週刊少年マガジン」で『空手バカ一代』の連載が始まりました。

この漫画は、大山倍達の半生を描いた伝記的作品です。

大反響となったこの作品はテレビアニメや映画にもなり、『空手バカ一代』を通して空手を始める若者が急増しました。

全国各地の道場に入門者が殺到し、通信教育にも年間4万人が入会したと言われています。

これにより、大山倍達や極真会館の知名度は飛躍的に向上し、空手界での求心力は増していきました。

【極真が生んだ空手家たち】

1988年(昭和63年)、日本国内のすべての都道府県に極真会館の組織が確立しました。

こうして一大勢力となった極真は世界123カ国に公認支部が設立され、全世界で会員数1200万人に及ぶ団体へと成長していきます。

そして、極真からは芦原英幸、松井章圭、八巻建志、数見肇、木山仁といった名空手家が輩出されました。

また、空手界のみならずプロ格闘技の舞台で活躍する人物も多く出ました。

PRIDEやK-1で活躍した黒澤浩樹、「拳獣」の愛称でK-1で猛威を振るったサム・グレコ、1996年のK-1 GP王者アンディ・フグ、K-1で「一撃」旋風を巻き起こしたフランシスコ・フィリォ、「戦慄のブラジリアンキック」を武器にK-1 WORLD GP 2005 準優勝を果たしたグラウベ・フェイトーザ、K-1 JAPAN GP 2008を制したエヴェルトン・テイシェイラ、前人未踏のK-1 WORLD GP3連覇を成し遂げたセーム・シュルト(セミー・シュルト)。

格闘技界で活躍する極真出身の空手家たちは枚挙にいとまがありません。

【死去と極真分裂】

1994年(平成6年)3月、風邪をこじらせたような症状が治まらなかった大山は、聖路加国際病院に入院します。

この頃、大山の肺は末期がんに侵されていました。

体調不良により、大山は同月に極真会館総本部道場で行われた「昇段審査会」を欠席します。

昇段審査に大山が立ち会わないのは初めてのことでした。

そして、1か月後、大山は肺がんによる呼吸不全により、70年の生涯にピリオドを打ちました。

絶対的存在であった大山が亡くなったことにより、極真会館では後継を巡る主導権争いが勃発しました。

大山の遺言では松井章圭が後継者に指名されたとされ、松井体制(松井派)による運営が始まりましたが、遺族側(大山派)が遺言に異を唱えます。

裁判にまで発展し、遺言の有効性を否定する判決が確定すると、松井派内で分裂が起きました。

一方で、方針の違いにより大山派内でも分裂が起き、「自分たちこそ正当な極真会館である」という組織が乱立し、さまざまな組織や大会が立ち上げられました。

大山倍達という稀代の空手家が一代でつくり上げた「極真カラテ」は、絶対的なカリスマを喪うと瞬く間に四分五裂しました。

しかし、大山や「極真」への尊崇の念は各派同じであり、それぞれがそれぞれの道で優秀な空手家・格闘家を世に輩出しています。

出典:『ゴング格闘技』1954年

以上、「武の真髄を極める」として極真会館を立ち上げ、世界中に支部を持つ空手界の一大勢力に成長させた不世出の空手家、大山倍達の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇

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【参考文献】 『真説 大山倍達』基佐江里,気天舎,2007年

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