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湯立神楽が有名な「我堂八幡宮」

「松原六社巡り」第4弾は、前回の「柴籬神社」から西のやや北より約4Kのところの厄除宮として親しまれている「我堂がどう八幡宮」です。

府道187号大堀堺線沿いにあり、西へあと約350mで大阪市内という松原市の端っこにあります。

松原市観光協会

この近くの松原第五中学へと次男のサッカーの試合のため、車や自転車で何度もこの前は通っていたものの、訪れた事は一度もありませんでした。

鳥居をくぐるだけで社域が見渡せるぐらいの狭い境内なので、大したことはないだろうと高をくくっていましたが、とんでもなかった!
様々な史実が出てきて、最終的にはどうまとめようかと苦心したほどでした。


ご祭神は応神天皇

京都の岩清水八幡宮の別宮である堺市の百舌鳥八幡宮から勧請され、延宝8年(1680)の創建と伝わります。

昭和53年(1978)の再建

勧請されたご祭神は品陀別命ほむたわけ の みこと(誉田別命)です。
誰それ?と思ったら15代・応神天皇のことでした。

さらに調べてみると、仲哀ちゅうあい天皇の第四皇子とあり、母はやはり神功じんぐう皇后。
神功皇后と言えば、過去に記事にした事もありますが、超人的な伝説がいくつかあります。
・新羅・百済・高句麗の三韓を制した「三韓征伐伝説」
・100歳まで生きた。(169年生まれで269年死亡)
・神と通じる事ができる巫女的な能力があった
・日本初の肖像画入り紙幣に採用
・「君が代」の元を作った
と、ざっとまとめるとこんな感じです。

その神功皇后が応神天皇を妊娠中、「新羅を攻めるべし」というご神託を得たものの、夫の仲哀天皇は背いてしまい、神はお腹の子に三韓を与えると告げられたあと崩御されてしまうのです。

その後、神功皇后は身重の身体で出兵の指揮を執り、三韓征伐をしたというのです。
しかも出産が遠征と被らないよう、安産祈願の鎮懐石ちんかいせきをお腹に当てて出産が遅れるように願掛けまでしての出兵だったそうです。

どこまでが神話でどこからが史実なのか、よくわからないのですが、エピソードを聞いただけでも、信じがたいものがありますね。

数々の境内社

狭い敷地には複数の境内社が鎮座されていました。

こんなところに「白髭神社」が!
2021年11月にレキジョークルでこの本社を訪れたことが思い出されます。

湖西の際に位置し御祭神は猿田彦命さるたひこのみこと、近江国最古の神社だと伝わり、湖中鳥居か素晴らしく美しかった!

2021年11月19日リンさんによる撮影



我堂がどう」という地名はどこから?

まずは「我堂がどう」という地名の由来が気になり調べてみても、その記述をなかなか見つけることが出来ませんでした。

我堂がどう」の意味を単純に拾うと「自分のお堂」となり、このあたりの実力者が個人的な神仏を祀っていた建物に由来するのかもしれないと地図で確認すると、当社以外に「善正寺ぜんしょうじ」を見つけ、これだ!と思ったのですが、そんな簡単な話ではありませんでした。


黄蘗宗おうばくしゅう・「神宮寺じんぐうじ

松原市では毎月、全世帯に配布される「広報まつばら」があり、その中に「歴史ウォーク」という郷土史を伝えるシリーズが掲載されています。

その中のNO.48に我堂八幡宮について書かれているのを読むと、江戸時代までは神仏習合により、境内には黄蘗宗おうばくしゅうの「神宮寺」があったのですが、残念ながら明治の「廃仏毀釈」により廃寺とされてしまいました。
そして最後に以下の一文がありました。

我堂という地名の由来はこの神宮寺に拠っているかもしれません。

48  我堂八幡宮と神宮寺の本尊

我の堂、すなわちそれは「神宮寺」の事だったのですね。

ご本尊に北朝の年号

神宮寺のご本尊は像高は61.5cmの阿弥陀如来座像なのですが、その裏に墨書きがあります。

本尊 阿弥陀如来 神宮寺置之 永和三丁巳年 施主 成田誓玄居士

銘文から、成田氏が永和3年(1377)に神宮寺の本尊として、阿弥陀如来像を寄進したことがわかります。

48 我堂八幡宮と神宮寺の本尊

ここで注目したいのは、この「永和」とは、南北朝時代(1336~1392)における北朝の年号だという事です。

ここは河内国であり、南朝方の楠木氏が治めていたところなので、「天授3年」であるべきが、北朝の元号が使われているのは不自然なのです。

その理由はこの時はすでに室町幕府3代・足利義満の時代であり、その守護所が現・松原市丹南にあったからではないかと推測されています。
ちょうどまだややこしい動乱期だったのもあるでしょうね。

ご本尊は善正寺に保管

明治の廃仏毀釈の時に、北西200mにある「善正寺」にご本尊は移され、本来のご本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来立像ですが、その左横に安置されているとの事です。

見学できるなら見てみたいなぁ

ちなみに善正寺は神宮寺と同じ黄檗宗ではなく、真宗大谷派とのことです。

神宮寺があった頃、このあたりは池や水路に囲まれた「環濠集落」だったこともあり、集落全体の信仰対象となるお堂だったはずなので、個人のお堂ではなく我々の堂という意味で「我堂」と地名が定着したでしょう。

元は幕府領でしたが宝暦8年(1758)に狭山藩北条氏の領地となって、幕末まで続き、明治8年(1875)、東と西に分かれていた我堂村が合併して、一つの我堂村となりました。

北条氏?
黄檗宗?

この二つのキーワードで思い出した寺があります。
昨年の春に訪れた「法雲寺」です。
たしかここが北条氏の菩提寺でした!

神功皇后といい、この北条氏といい、
今回も微妙に”アハ体験”です。


節分の神事「湯立神楽ゆたてかぐら

私は今回、当社を調べてみて「湯立神楽」という言葉自体を初めて知りました。
沸騰させたお湯に笹の葉や枯れ葉を浸して撒くというもので、それを浴びて無病息災や五穀豊穣を願掛けするという神事とのことです。

毎年2月3日の節分の日、14時より境内では巫女さんが煮えたぎる湯の中を笹で撒く神事が執り行われているらしいのです。

浪花神楽・富永流

「湯立神楽」は日本古来の神楽形式の一つで、
「神楽」には宮中での「御神楽」と民間での「里神楽」があり、特に後者は各地域ごとの特徴が見られ、大阪では一般的に「浪速神楽」といわれ、これにも流派があり家元が存在しています。
「湯立神楽」は富永正千代(1892~1971)という方を祖とし、舞楽や雅楽の伝統を受け継ぎながら独自の「富永流」を完成させました。

実は当社の宮司・坂野多々志さんは富永さんの甥にあたり、宮司となられた昭和34年(1959)からこの神事を始められたそうです。

素朴な疑問ですが、熱湯をかけられて火傷しないのか?と頭を過ぎりましたが、考えてみたら奈良・東大寺二月堂の「お水取り」で火の粉を浴びても何の問題もなかったので、きっと大丈夫なのでしょう。

「お水取り」は夜だったせいか、幻想的な光景にとても感動したのですが、こちらはどうでしょう?
元々は「湯立神楽」も夜に行われていたそうなのですが、どうして昼間になったのでしょう?
夜の方が絶対に神事らしく厳粛な雰囲気になると思うのですが、それが惜しいように思います。

どんなものか見てのお楽しみですね。
来年はぜひ見たいものです!



文化9年の狛犬たち

最後に本殿前の一対の狛犬についてのレポートです。

足首に紐が巻かれていました。
komajinさんの著書によると、この紐には特別な意味があるそうです。

足に巻かれた紐は「走人足止め」の祈願の紐で、一本を狛犬の足に結び、もう一本を持ち帰って家出した人の履物に結んでおくと、その人の居場所がわかるか家に帰ってくると言い伝えられている。

大阪狛犬物語

昨年の大楠目当てで訪れた「杭全神社」の拝殿前の狛犬にも巻かれていて、不思議に思いながらも記事では触れなかったのですが、片方ずつではなく両方の足首を一緒にくぐらせて巻いていましたが、ここのは片方ずつで、しかも向かって右が両足首、左が右足首のみでした。

これも「足止め」の願掛けなのでしょうか?
片方ずつでもそうなのかどうか、まだ狛犬の数を見ていない私にはわかりません。


台座の文字を確認すると、「文化9年は1812年」
212年前のものという事になります。
施主名
右:「北田助右衛門、綿谷?兵衛」
左:「山口市?兵?、池内文右エ門」

長年の風雪によるのものか、全体的に角が取れて、特に右の狛犬の鼻や尾が形や筋がハッキリしていませんでした。


何度も前は通りながら、気にも留めなかった神社ではありますが、調べてみると面白いように様々なことに繋がり、意外な発見を得た「我堂八幡宮」でした。




【参考文献】
・広報まつばら 松原市歴史ウォーク
大阪狛犬物語(塩見一仁:著)


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