二月堂の良弁杉から母子の絆を思う~郷土史の中のウラ史実④
トップ画像出典:奈良まちあるき風景紀行
久しぶりに郷土史「あしたづ二号」の記事より書かせていただきます。
厳密に言って、郷土の話ではなく、東大寺・二月堂での伝承話で、母子の情愛の深さを書いた記事がありました。
古より広く知られ、歌舞伎や文楽の演目になったストーリーでもあります。
「修二会」には邪魔だと思った大木
東大寺境内をを代表するスポットである「二月堂」での仏事と言えば、「修二会」を思い浮かぶ人が多いのではないでしょうか。
または「お水取り」または「お松明」とも言い、二月堂の舞台にかざされた、大きな松明から降り注ぐ火の粉を浴びて、仏へ懺悔するという法会の一つです。
その「修二会」はレキジョークルでも行っていますので、後日著書本の「奈良編」にて詳細は紹介させていただくとして、今回はその「二月堂」の「舞台」の真っ正面にある、ひときわ目立つ杉の大木に関してのお話です。
「修二会」に参加した事がある方は、正直のところ、この木さえなければ良く見えるのにと、とても邪魔に感じた人もあると思いますが、そんな罰当たりな事を言ってはいけません。
私も、そう感じた一人なのですが、あくまでもショーを見るのではなく、歴史ある仏事に参加するのですから、そもそも基本的に心構えが間違っていました。
良弁僧正と杉の木
奈良時代の華厳・法相宗の僧・良弁は行基とともに聖武天皇を助け、東大寺の創建にも尽力し、僧でありながら東大寺初代別当という政務の長官みたいな役職をも担った優れた高僧でした。
その良弁は、幼い頃、母親と生き別れて、不思議な縁で再会し、孝行を尽くしたという伝承がこの杉の木に残されています。
全部を書くと非常に長いので、以下の通り要約してみました。
この後、良弁は母親に孝行を尽くし、母親は天寿を全うした後、大仏殿のすぐ西側に子安明神として祀られたのです。
そして、良弁が引っかかっていた杉こそが、二月堂の中央に立つ大木なのです。
時代を超えても変わらない母の情愛
さて、「あしたづ」に当記事を書かれた方は、貴重な青春時代に戦争を体験されて、改めてこの逸話をふまえた上で、母の心情に触れられています。
祖国・日本のため、一途な愛国心で、戦争という国難から救いたい一心で、自ら兵隊に志願した多くの若者たちは、そのほとんどは親の承認を得ずに自分勝手に志願しているが、陰で母親がどれだけ泣いているのかを考えていたか、と問いかけています。
私はこの一文を読んで、なんだかホッとしました。
ドラマや映画で出征の時、
笑顔で万歳三唱し、拍手して讃えているシーンは本当か?
と思っていたので、こういう庶民の思いを知り、妙に納得したのです。
これから死ぬかもしれない戦地へと向かう息子を、どうして拍手で送り出す事ができますか?
自分の事に置き換えて考えたら、どうしてもできません。
強要されるのなら、国に対して暴動を起こすかもしれませんし、受け入れてくれるところがあるなら、日本を捨て、息子を連れて亡命だってします。
私の息子は使い捨てのコマじゃない。
簡単に使い捨てにされるために、慈しんで育ててきたわけではないのです。
上記の逸話より感じられる、母が子にかける執念とも言うべき情愛の深さに感謝の誠を捧げ、この良弁杉と子安明神を参拝するべきだと述べられています。
現在の良弁杉と興成神社
現在の良弁杉は、もちろん奈良時代当時のままのものではありません。
初代の木は樹齢600年の巨木でしたが、台風、災害などの影響を受けて破壊や枯死し、現在のは昭和36年に植え替えられた4代目のものとの事です。
驚いた!今の良弁杉は私と同い年です。
今度訪れた時は、シッカリ拝もうと思います。
何度か植え替えられたのですが、以前の「良弁杉」古木の根元の部分の切り株が現在も一部が残されています。
遠くからでも目立つ大きな良弁杉ですが、その足元には小さな朱色の「興成神社」があり、その対比が素晴らしく、バックに堂々たる二月堂の圧倒的な建築と合わせた景観には、壮大さを感じずにはいられません。
ましてやこの伝承話を知り、その深い親の愛情を思って眺めると、より一層の大きさを感じて感慨深くもなります。
今年の「修二会」は3月1日~3月14日ですね。私たちが行った年に比べると、半月遅くなっています。
これもコロナの影響なのか??
もし行かれた折には、良弁母子の事を思い出しつつ、親への感謝心を念頭に参拝してみるのもいいでしょうね。
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