押さえておきたい!日本史を彩った道長の側近たち
「光る君へ」もそろそろ中盤に差し掛かり、いよいよ越前編に突入するようです。
女院・藤原詮子(吉田羊)を呪詛したのは誰?
中宮・定子(高畑充希)が出家?
道長との過去の仲を父の為時に告げたまひろ
などなど、これらの伏線が次週以降の展開に生きてきそうで楽しみです。
さて、父に続いて、兄たちも次々と他界し、氏長者となった藤原道長(柄本佑)。
欲のない発言が目立ちますが、とんでもない。
一躍公卿のトップに躍り出ると、自分の思うように改革を進めていく手腕は大したものです。
彼が藤原氏の絶頂期を築き不動の権力を得たのには、優れた目で人を見極め、配下に置いた人選も功を奏したことの一つでしょう。
今回はそんな道長の側近と配下の者たちを取り上げてみたいと思います。
レギュラー出演の「四納言」
道長(柄本佑)を以前から取り巻き、良きライバルであり協力者でもある、毎度おなじみの顔ぶれの4人。
彼らは一条天皇(塩野瑛久)の御世を道長とともに支え、「納言」の官職を得るまでになったので、のちに「四納言」と言われます。
レギュラー出演のような人たちですが、もう一度簡単にご紹介します。
・源俊賢(本田大輔)
妹の道長の妻・明子が兼家(段田康則)を呪詛していたことからわかるように父・高明を失脚させられた経緯があり、藤原氏はカタキ。
それでも恨むより、自身の出世のために要領よく道長に尽くす。
藤原行成の才を見出した慧眼の持ち主。
・藤原公任(町田啓太)
父は先の融通天皇時代の関白・藤原頼忠、母は醍醐天皇の孫・厳子、姉の遵子が円融天皇の皇后という、申し分のない血統を持つ一族の出身。
その上、和歌・漢詩・管弦などにも秀で、兼家はかつては大変羨ましがったほどだが、兼家の企て通り花山天皇の出家や藤原詮子(吉田羊)が皇太后となるなどで結果、親子は失脚する。
・藤原行成(渡辺大地)
書の達人の上、文才も備え、日記「権記」を遺す。
下級貴族で不遇の境遇だったが源俊賢にその才を見出され、大抜擢され、道長・頼道(渡邊圭祐)という親子2代の側近として尽くす。
・藤原斉信(金田哲)
道長と同じ・藤原北家の出身で父は太政大臣の藤原為光(阪田マサノブ)。
清少納言(ファーストサマーウイカ)とのやり取りでは、邪険にされても懲りずに近づくイタイ人のようだが、実は頭脳明晰で振る舞いもスマートな貴公子。
源俊賢のみ年が上で、藤原氏へ近付いたのも一番後ですが、他の3名は早くからドラマに登場し、道長との親密な関係が描かれていました。
特に斉信と公任らと道長は同じ一族だという事もあり、幼いころから顔見知りだったようです。
道長が父や兄たちの影に隠れて目立たない時期は、彼らも全く注目していませんが、道長が氏長者となったとたんに態度を変え、自身の出世のためといえ政を援護します。
道長が栄華を極める事が出来たのは、彼らの献身的な協力があればこそで、それだけ道長には惹きつけるカリスマ性が元々あったのか?
いや、彼自身の中で急速に覚悟が目覚めたと言うべきかもしれません。
源氏、平家へと繋がる「四天王」
上記「四納言」とは別に道長の側近と言うより配下には「四天王」と呼ばれた4人の者たちがいました。
残念ながら「光る君へ」での配役は今のところありませんので、物語に登場する予定はないようです。
・源頼信
・平維衡
・平致頼
・藤原保昌
彼らは後世の徳川四天王のように一堂に会して話し合う親密な間柄ではなく、道長の配下にいた「武士」という身分の中で豪傑として名高い者たちを取り上げて「四天王」と呼びました。
しかし、このうちの源頼信と平維衡の2名はのちの日本史に大きく関わる源平の祖となる存在になります。
河内源氏の祖・源頼信
兄の道兼に仕えていましたが、彼の死後に道長へ仕えます。
諸国の受領や陸奥国の鎮守府将軍などの役職を経て、河内国に定住したことで、やがて河内源氏の祖となりました。
房総では平将門の乱以来の反乱、平忠常の乱が長期化し、それを鎮圧するなどして武功を挙げました。
これを機会に、関東の坂東武者と河内源氏との主従関係の始まりとなり、東国での基盤が固まります。
この時に始まった坂東武者との関係は続き、この頼信より6代後に、鎌倉幕府を開いた源頼朝が誕生するに至ります。
[河内源氏]
頼信→頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝
この過去の経緯を知ると、一昨年の大河「鎌倉殿の13人」での御家人たちと頼朝との関係性がより理解できますね。
伊勢平氏の祖・平維衡
父は平将門の乱を鎮圧した平貞盛。
この維衡が伊勢国で地位を確立して基盤を築いたことで伊勢平氏の祖となります。
その際、彼はまたいとこの平致頼と覇権争いを繰り広げて、道長をはじめ朝廷より咎められますが、謝罪文を提出することで許されます。
しかし、この二人の争いは息子の代まで続き、致頼の子・致経が没したのを機会に維衡一族が発展することになりました。
そして維衡より5代あとの子孫が平清盛です。
[伊勢平氏]
維衡→正度→正衡→正盛→忠盛→清盛
全ては過去に起因する
後の日本史の基盤となる道長の配下
以上の道長の配下にいた貴族や武士たちは後世の日本史に多大な影響を与える事になるのです。
言い換えれば、以後の歴史は全ては今年の大河で描かれる平安時代に起因があるわけで、「歴史」と言うものがつくづく脈々と受け継がれて紡がれたものであると感じずにはいられません。
当時の武士は、戦国時代とは異なり、身分というよりは職種の一つと言うべきもので、京の行政機関の一つ「検非違使」という役職ともまったく違いました。
元は農民だった者たちによる領地争いから生まれたのが武士で、決して社会的地位を与えられていたのではありませんでした。
そういえば、2012年の「平清盛」では武士は貴族たちから「犬」と蔑まれ、2022年の「鎌倉どの…」では御家人たちが、自分たちの領地に執着する姿が描かれていました。
要するに、より豊かな領地をめぐる抗争から「武士」は誕生して力をつけ、やがて政治の主導権も朝廷貴族から武士へと移る事になるのです。
その中からのちに日本史における重要な人物が誕生することを思うと、平安時代に公卿を束ねる立場にあり、彼らを配下に置いた道長の存在はあまりにも大きい。
今回の大河ではそのあたりにも着目し、単に源氏物語の題材になった時代というだけではなく、見方を変えて先を見れば、その後に続く歴史の流れを変えた起因や、その後の日本史の基盤ができた重要な時代だと言えるのではないか。
そして、大河ドラマの楽しみ方の一つとして、過去の作品を時代別に組み替えて考え、今回の「光る君へ」から「平清盛」~「鎌倉殿…」へと移る時代背景の要因を様々に探ってみても面白いですね。
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