見出し画像

「唐招提寺」ー西ノ京、世界遺産の大寺たち②

前回はこちらです↓↓↓

次は「唐招提寺とうしょうだいじ」を目指します。
薬師寺北の北入り口「輿楽門よらくもん」から550mで、歩いてもたった10分の距離ですが、昼食も摂りたいため、いったん車で県道9号線(大和郡山斑鳩線)へ出て回り込む事にしました。

画像クリックでGooglemap

赤い矢印線が近道で、松並木が続くのも良い感じの道ですが、歩行者専用ではなく南方向の一方通行で、車がどんどん向かってきていましたので、のんびりと歩いてもいられない。
日祝ともなれば人出も増えると予想され、ここは歩行者専用にしてもいいのではないだろうか?

昼食は、県道9号線沿いの「ふくや」で済ませ、少し戻る感じで唐招提寺の駐車場に到着しました。


唐招提寺の簡単ポイント

鑑真の私院として建立

「唐招提寺」を語るにはまずは鑑真和上がんじんわじょうのことを語らねばなりません。
8世紀初頭の日本には仏教に帰依きえする基本の儀式がなく、戒律かいりつ遵守じゅんしゅを誓う「受戒じゅかい」の制度を整える事が急務でした。

栄叡ようえい普照ふしょうの熱意に打たれて
遣唐使船で唐に渡った興福寺の僧・栄叡ようえい普照ふしょうは、仏教で最も必要な授戒ができる高僧を求めて鑑真を訪ねました。
当初は鑑真の弟子の誰かが日本に渡ってくれる事を望みましたが、大きな危険を伴う渡航に恐れを成した弟子たちは誰も行きたがらず、彼らの熱意に打たれた鑑真は自分が行く事を決意します。

ところが、渡日の許可が出なかったり、投獄されたり、船が難破したりで渡海に5回も失敗した上、鑑真は視力までも失ってしまいます。
天平勝宝5年(753)、6回目のチャレンジでやっと日本の地を踏んだ時、鑑真はすでに65歳でした。

日本での鑑真の功績
76歳の入滅までの10年間のうち、5年を「東大寺」、残りの5年を「唐招提寺」で過ごします。
・国内初の授戒ー上皇や天皇ら440名
・754年、東大寺に戒壇院を建立
これより受戒を授かった者だけが僧として認められます。
(国家資格みたいなもの)
・759年、唐招提寺を建立

驚くべきは、奈良の大寺のほとんどが天皇からの勅願による官寺なのに、「唐招提寺」は鑑真の発願による私院なのです。
遠い異国の地で人生を終えた彼の生涯は、私のような凡人には可哀そうに思えてしまいますが、数々の苦難の末、日本での仏教制度確立を達成できたことは大きな達成感を得たことでしょうね。

律宗の総本山

南都六宗の一つであり、戒律を重んじる律宗の総本山です。
上記の経緯で鑑真が日本で確立した宗派です。

天平文化

唐の影響を受け、日本で独自に国家仏教が発展した国際色豊かな文化です。


中心伽藍と仏様

観光リーフレットより

金堂

奈良時代、8世紀後半に建立された唯一の建造物。

南大門をくぐると真正面に見える荘厳な佇まいに圧倒され、思わず立ち止まらずにはいられません。
手前の植栽が伸びて、せっかくの天平様式による屋根の美しいカーブが隠れて見えないのが残念です。

薬師寺の煌びやかな鴟尾しびと違い、こちらは重厚感あるシンプルなもので、屋根全体を眺めてみると、井上靖による小説「天平の甍」を思い出し、無性に再読したい衝動に駆られます。
当時はたしか二十歳そこそこだったので、鑑真が大変な苦労をしたなということは解りましたが、深く理解はできておらず、本当の感動は得ていないように思います。
もしかしたら今なら、もっと鑑真やその若き弟子たちの気持ちに寄り添えるかもしれません。

隅鬼たちと鴟尾しび
楽しみにしていたのは隅鬼たちです。
軒下四隅でそれぞれがこの大きな屋根を支えているのです。
肉眼では見上げても遠すぎてほとんど見えず、また写真に収めて部分拡大してもピンボケでよくわからずでがっかりです。

西南の隅鬼が江戸時代のもの、他は奈良時代。
鴟尾しびは西が奈良時代、東が鎌倉時代。

実は大規模な解体修理(平成12~21年)の最中は近くで屋根を見る事ができ、これらの隅鬼たちもしっかり鑑賞できたらしいのです。
残念に思っていたら、金堂の東側に石製のレプリカが置かれていました。
せっかくなので先日確認した法隆寺のものと比べてみましょう。

唐招提寺 金堂
レプリカが一種類しかないのですが、あきらかに北側のものは違う。
どうせなら全てのレプリカを置いて欲しい。
法隆寺 五重塔

どちらもキツそうです💦
双方で姿勢も顔も違うのですが、唐招提寺金堂のものは正座しているので、これはかなり堪えるのでは?

旧・鴟尾しびは「新宝蔵」にて展示していましたが、西が120.4cm、東が117.5cmで、後で作られた方が3センチほど小さい。
わざと同じにしなかった?それともできなかったのか?

ご本尊は廬舎那仏るしゃなぶつ

購入した絵葉書より
中央のご本尊は304.5cm。

須弥壇中央に座すのはご本尊の「廬舎那仏るしゃなぶつ」とは、5世紀頃中国で成立した大乗の戒律を説く経典「梵網経ぼんもうきょう」での主尊とのことです。
それに脇侍が「千手観音」と「薬師如来」とは、なんて豪華な!
脇を固める仏さまも十分主役クラスのスター揃いではないですか?

廬舎那仏るしゃなぶつの前左右には梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん、四隅には四天王がおられました。

講堂ー平城宮唯一の遺構

こちらも大きいので正面から撮るのは難しく、斜めから。

創建時に平城宮の「東朝集殿ひがしちょうしゅうでん」を朝廷より賜り移築したもです。
という事は唯一の平城宮の遺構なのですね。
そう思うと俄かにその歴史の重みを感じずにはいられません。

ご本尊は弥勒如来●●
実は前回の薬師寺のところで、

弥勒さんは菩薩さまではないの?

前回の薬師寺編

という疑問が湧きましたが、その答えが唐招提寺の観光リーフレットにありました。

(弥勒如来像は)
釈迦牟尼仏しゃかむにぶつの後継で、将来必ず如来として出現して法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現

釈迦牟尼仏しゃかむにぶつとは直訳すると「釈迦族の聖者」と書かれているのを見ると、お釈迦様の御心のまま帰依するという事でしょうか?
要するに弥勒菩薩が予定通り悟りを開いたとして、如来の姿にしたという事のようです。
どうもしっくりしませんが、この釈迦牟尼仏しゃかむにぶつは実際に禅宗・臨済宗の寺院ではご本尊としているようです。

天平文様の戸張とちょう

金堂とともにこの講堂の各出入り口に白地にエンジの文様の戸張とちょうがさげられていて、やさしく風になびいていました。

実際、これを戸張とちょうと呼んでいいものか定かではありませんが

大きな行事のある時は南大門にも下げられていますが、この日はありませんでした。
柄は一般的には小紋柄にあたる唐招提寺の留柄とめがらですが、宝相華ほうそうげという2種類の紋が規則正しく配置されています。

これらは「天平文様」と呼ばれるもので、
地中海や西アジアに興り、唐を経て華やかさを増して、奈良時代の日本に入ると独自に変化して生まれたものです。
実際に正倉院の宝物にも多く見られるデザインで、自然界の花や鳥をモチーフとしたもので、人々の繁栄を祈り願いを込めたものなのです。

開山堂と御影堂

テレビなどでよく登場する国宝の「鑑真和上像」は御影堂に安置されていますが、この日は完全に閉鎖で、毎年6月6日の前後3日間だけの公開だそうです。
2週間ほど前ならみれたのにと思うと残念です。

そのかわりその南にある開山堂で「身代わり像」を拝む事が出来ます。
とても狭いところにある小さなお堂ですが、比較的新しい像が鎮座されていました。
身代わりでさえ撮影禁止とはいったいどういう事でしょう?
本物ならわかるのですが、こちらはレプリカということなのに、どうにも納得できません。


鑑真和上御廟

開山堂を出てふと東を見ると、静寂な小径が続いています。
「←御廟」と書かれた簡素な木の看板がありました。

境内の北東の奥の隅に位置する鑑真和上の墓所です。
朽ちた土壁に続く古びた棟門をくぐると、そこに広がる光景に思わす声をあげました。

美しい苔の大地からまっすく天に伸びた木立が御廟へといざなう様子は、まるで一瞬にして異世界に迷い込んだような静謐さに包まれていました。

高野山・奥の院の空海や比叡山延暦寺・浄土院の最澄の御廟と似た空気を感じ、思わず口を閉ざして沈黙してしまうほどの威厳溢れる空間です。

奥には古墳のようにこんもりと盛り上がったお墓があり、周りはまるで堀のような池が造られていましたが、その水は決してキレイとはいえませんでした。
1250年もの時を超えて、今も参拝する人が絶えないのは唯一無二の鑑真の存在がいかに重いものであるかと感じます。

唐人でありながら、労力を惜しまず身を犠牲にしてまで、日本の仏教界の地固めを成し、異国の地に骨を埋めた鑑真の事を思うと、心から手を合わせたくなりました。


「廬舎那仏」
ギリ読める♪


余談ですが…

先ほどの薬師寺も、この唐招提寺も蓮は池ではなく、なぜか鉢植えで咲かせていました。
鉢の方が手入れしやすいのかなぁ。
ちなみに我が家も鉢植えの蓮がありますが5年間、一度も咲いたことがありません💦



JR東海の鈴木亮平さんのCM「いざいざ奈良」でも唐招提寺が紹介されています。




【参考文献】
・観光リーフレット
唐招提寺
唐招提寺 金堂の鴟尾と隅鬼
なら旅ネット
TEMPYO PATTERN
古都の几帳ガイド


サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。