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私たちは大切な人の顔を忘れてしまう

祖母の最期の顔を、私はきっと忘れるだろう。

棺に花を納めながら、そう思った。

白髪染めを欠かさない人だった。かかりつけの病院に行くのにも、スカーフを巻いて出かけていた。けれど、ここ数年の病床の祖母は別人のようだった。白髪で、痩せ細り、入れ歯もしていない。遺影の笑顔の方がずっと、私の見慣れた祖母の顔だ。

亡くなる少し前、虫の知らせだったのか、アルバムの整理をしていたら祖母の写真が出てきた。割烹着姿で、お正月の餅を丸めている。髪型もお化粧も整えていない姿を写真に撮ろうとすると、祖母はいつも嫌がった。一方で私は、ありふれた日々の写真が趣味にもなる世代だ。隙を付いてシャッターを切った。数少ない、祖母の写真。


時々、毎日一緒にいる息子や夫の顔が思い出せなくなることがある。

スマホのカメラロールを開けば、大量の写真がスクロールする。親しい人の顔を思い浮かべるとき、まず像を結ぶのはそういう“写真の顔”だ。けれど、「今」の「生身」の彼らの顔を想像しようとすると、うまくできない。くり返し見た赤ちゃんのころの顔。カメラ目線で目を細める顔。そっち(写真)じゃない。あの人は、素の顔はどんなだっけ? どんな表情で、どんなふうにしゃべるんだっけ?

不思議なことに、近しい人ほどその解像度は荒くなる。
“写真の顔”が、ふりはらえなくなる。


今はまだ、記憶の中で祖母の表情や雰囲気を再現することができる。

けれどいずれ、写真が記憶を補完し、レタッチしていくだろう。病気になり、白髪染めもできなくなってからの写真は1枚もない。生き抜いて痩けた最期の顔の印象さえ、時間とともに薄れていく。身なりを整え、笑顔を浮かべた写真の祖母が、祖母という人として再生される。

でも、そのほうがおばあちゃんはうれしいでしょう?

容態の悪化を聞いて帰省する道中、「90歳にならないと味わえない喜びがある」なんて書いたけれど、綺麗事だった。
外見を気にする祖母のことだ。できることならもう少し、若い姿で棺に入りたかっただろう。

§

私たちは覚えていられない。
親しい人の顔を、普通の仕草を、笑うときのクセを、話すときの瞳を。
近くにいる人ほどに。
視覚による記憶は、自分で思うよりもずっとたよりなく、儚い。

だからせめて、覚えていられないということを、覚えていよう。
生きているから、記憶は更新されてゆく。
忘れてはいけないと躍起になるのではなく、その儚さごと、受け入れよう。


[一日一景]
___1日1コマ、目にとまった景色やもの、ことを記しておきます。

こんなところに載せると叱られそうなので、うんと若かったころの祖母の写真を。お向かいの酒屋の前で、巨大児だった私を抱っこして。

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