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第5回「魔法」

 いままで生きてきた中で、一度は魔法に憧れたことはないだろうか?もちろん、わたし自身例外ではない。では、ふと気付いた時に、『自分が魔法使いになっていた』ということはあるか?わたしは、つい最近一度だけその瞬間を経験してしまった。


 わたしは普段はしがないOLをして過ごしている。以前は広告代理店でバリバリの営業をしていたこともあり、転職の際はとにかく定時あがりに固執してしまっていた。現状、前職と比較するといまの仕事は毎日平均7時間は早く帰れており、時間面で見ると最高すぎる。創立10年程のベンチャー企業から、創立70年にもなる会社へと移ったわけだが、これが全く異なる世界だったのだ。

 広告代理店時代は、毎日のように提案資料や会議用の資料を作成し、メールを使いこなし、営業時のメモも会議のメモもすべてパソコンで取っていた。周りがそうだったし、上司や先輩からもパソコンに関するさまざまな知識や使い方を教えてもらって少しずつできることが増えていった。

 従来よりわたしは機械音痴なので、できることが増えていったとは言え、社内ではいつも『パソコンが使えないヤツ』のレッテルが貼られていた。知識もなければ、タイピングの速さも大阪の拠点の中では下から数えて何人目かくらいのものだった。そんなわたしだが、転職活動中の面接ではパソコンスキルはそこそこ出来ると豪語していた。いまの会社に入る際にも「オフィスは問題なく一通り使えます、ブラインドタッチももちろんできます。」といった風に伝えていた。前職の中ではダメダメでも、それくらいはできるのだ。

 すぐに内定をもらい、翌週から働くこととなった。いざ、事務所内に入ると驚く程の紙媒体で溢れかえっていた。パソコンも一応はあるが、メインで使うことはたまにしかないとのこと。基本は紙を使用し、全ての情報がファイリングされており、住所録は自分で手書きで書き足していかなければならない。お客さんとのやり取りは電話かFAXが基本で、一度お客さん宛にメールを送る際に上司をCcに入れた時には、事前に「Ccに入れときますね」と伝え、それに対して上司も「お願いします」なんて言っていたにも関わらず、実際は存在を知らなかったらしく焦って電話がかかってきたほどだ。

「間違ってお客さん宛のメール俺に送ってしまってるで!気ぃつけや!」

 気をつけるのはこの時代に紛れ込んで生きている貴様の方ではないのか?おかげで、Ccとは何か、なぜCcを使用したのかを1から説明する羽目になった。スベったボケの内容を全部説明する、あの行為に似た感情を覚えた瞬間でもあった。

 部長と所長が新しくできるお客さんのお店について話していた際も、神妙な顔つきで、しまいには立ち上がって腕組み話しているものだからトラブルか?と聞き耳を立ててみると、「あの店、FAX…ないらしいぞ…」「いや、どうやってやっていくんでしょうね…潰れるのも時間の問題ちゃいますか?」と。いや、なんで???なんでFAXなかったら、店そのものが潰れんの?


 そんな不思議なスーパーアナログ空間で半年ほど過ごした頃、その日は突然やってきた。わたしが、自席で業務を行っていた時のことだ。上司が席にきて、1つの書類を印刷してほしいと言った。データをファイル分けして保管するということができない上司は、いつも大切なデータを保存しては自分のパソコンの中でなくしてしまうのだ。

「これですか?」

「そうそう、これ1部印刷してくれる?」

 「わっかりました~」と、何気なく『Ctrl』と『P』を押した。そして、そのまま『Enter』をドーーーン!もちろん、複合機が呻き出してその数秒後には書類が印刷されていた。印刷された書類を手に取り、席に戻るまで何も気にしていなかったので、上司の顔は見ていなかった。書類を渡す時に顔を見ると、目が合わない。そして、いつもヘラヘラしている上司が真顔だったことに違和感を覚えた。

「なあ、いま自分さ…何した?」

「えっ?印刷するの間違ってました?」

「いや。あってる。なあ、何した?」

 言葉数が少なく、何を指しているのかがわからなかった。心なしか怒っているようにも見える。この上司は親に近い年齢にも関わらず、しっかりと異性としてわたしのことを見ているはずなので、このリアクションは珍しい。印刷してと言われたから印刷したまでだ、こんな態度をとられる筋合いはない。言われたことを遂行しただけだと伝えたら、またもや怒りつつ食い気味にきた。距離が近い、頼む。もう少し離れてはくれないだろうか。


「いま、マウスも触らずに印刷したよな?そんなことありうるか?」

 頼む。しばらく、黙ってもらえないだろうか。またもや心の中で懇願してしまった。ショートカットキーの存在を知らず、自分が見ている目の前で、わたしがマウスに触れることもなく印刷をやってのけたことに驚きすぎて怒りに変わっていたようだ。あれか、愛情が憎しみに変わるやつの別バージョンか。子供をあやす様に、説明をした。

「これは…魔法のようなもので、マウスを触らなくとも色々なことがキーボードのみでできるんですよ。びっくりですよね~便利ですよ~。」

 あぁもう帰りたい。いつも、上司の知らないことをすると怒られてしまうのだ。エクセルの枠固定をして、情報の記載漏れがあると決めつけて説教されたことは1回や2回じゃない。その時は、「非常に申し上げにくいのですが、左にスクロールすることは可能でしょうか?」という革命的なセリフで難を逃れることは出来たものの…。そういえば、エクセルで関数打ち込んだことがバレて、パソコンは信用できんとすべて電卓で計算し直させられた日もあったな……。いままでかつて、このようなことが起きただろうか?否、わたしの30年弱の人生では起きたことはない。平成が終わろうとしているいま、わたしはタイムスリップでもしたのかと考えるとゾッとしてしまう。次の元号は『魔法』なのか?


 数日が経ち、上司は『Ctrl』+『P』を使用し苦戦していた。「魔法使い、ちょっといい?自分が言ってることは理屈では分かるねんけど、どうしてもできひんねん。」その頃には、わたしは社内で魔法使いと呼ばれていた。見に行くと、同時押しではなく別々で順番に押していた。理屈もクソもあったもんじゃない。まったく何も分かっていないではないか。その日、わたしはどんな風に過ごしたのか思い出せない。記憶をなくしてしまったようだ。


 もし本当に魔法を使えるなら、わたしは弊社の効率化を図りたいと思う。ショートカットキーの使用が許されないこの企業の。

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