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若いうちだからこそやっておいた方がいいと思うことはありますか?と聞かれたら。~ 内向型に悩む若者へ送るエール~


先日、えびの市でJ.FC MIYAZAKIの監督・選手・スタッフによる職業講話とサッカー教室が行われました。地元企業の方から、スポンサードではない形で地域とクラブのためになるような支援をしたい、という申し出をいただいたことがきっかけで、2月頃から相談していたのですが、新型コロナウイルスの影響もありなかなか実現まで時間がかかってしまい、ようやく10月の終わりに開催までこぎつけました。準備期間が長くなった分、支援企業の方や地域の方々の意向を踏まえた形でいくつか提案をさせていただき、今のクラブが提供できる形としてはベストに近いものを一緒に作り上げられたのではないかと思います。詳しい内容はJ.FC MIYAZAKIのFacebookなどでぜひご覧ください。

さて、職業講話パートの最後で、中高生からの質問に答える、というよくある質疑応答のコーナーがありましたが、その中で、とある高校生から「若いうちだからこそやっておいた方がいいと思うことはありますか?」という質問が出されました。
後ろの席で傍聴していた私は、ふと自分だったら何と答えるだろうか、と考えていました。
好きなことをみつけること、好きなことに全力を注ぐこと、挑戦すること、多くの大人の話を聞くこと、親友をつくること、恋をすること、本を読むこと、勉強すること、苦労をすること。人によっていろんな回答が出そうです。この質問への回答を聞けば、もしかすると回答者の根底にある価値観が垣間見えるかもしれません。
少し考えて思い浮かんだのは、「自分が楽しめる一人遊びを見つけること」でした。

小学校に入学するかしないかの頃、「一年生になったら」という歌を嫌というほど聞かされ、歌わされ、疑問を挟む余地もなく友だちをたくさん作ることが良いことだと刷り込まれます。別の言い方をすれば、楽しそうな曲調に乗せて、たくさん友だちを作らなければならないんだ、というプレッシャーをかけてきます。
友だちがたくさんできた子たちにとっては何ともないことでしょう。しかし、理由はどうあれ友だちができなかった子にとっては重く重くのしかかります。

いわゆるあがり症、赤面症だった私は、そもそも日常的に人とコミュニケーションをとることが苦手で、人前で話をするなんてことになれば、顔は赤らみ、鼓動は早く、呼吸は荒くなり、汗は止まらず、身体は震え、頭は真っ白、声を発することもままなりませんでした。言わずもがな活発なタイプではなく、声が小さい、お腹から声を出して、はきはきしゃべって、おとなしすぎる、もっと元気よく、そんな言葉が常にまわりにありました。

そんな私ですが、幸いにも、幼稚園で1人、小学校でもう1人、合わせて2人も友だちができました。その友だちを介して他のクラスメイトと遊ぶことはありましたが、友だちと遊ぶ、となれば必ずと言っていいほど少なくともそのどちらかは一緒でした。
中学校ではその2人と同じ学校でしたが、2人とは違うクラスになった年は、「いじめ」とまではいかないまでも、嫌がらせをされた時期もありました。担任ともまったく合わず、私の協調性のなさが問題だとされ、嫌がらせ行為は正当化されました。この時、担任があちら側の肩を持ったことで、私とはもっとも対極にあるグループの人たちと、私とはもっとも対極にある教師によって、自分が関わるべきではない人たちがどんな人間であるか、輪郭をもってわかるようになりました。同時にこのクラスが本当につまらないものであるように感じられ、ますます友だちをつくることから遠ざかるようになりました。
さて、高校はそれぞれが違う学校に行くことになり、それでも結局休みの日に遊ぶのはその2人、学校ではうまく友だちを作ることができませんでした。私は高校時代を暗黒の三年間という表現をすることがあるのですが、特に楽しいことがあるわけでもなく、反対に特別辛いことがあるわけでもなく、本当にただ三年間が終わりました。
このような有り様ですから、当然のごとく友だちが少ないことにコンプレックスを抱えて過ごしていました。結局地元でできた友だちはその2人だけに終わりました。


私と同じような状況だった人や、本当に一人も友だちができなかったという人、あるいは今まさにそういう状況にいる人は、実はそんなに少なくないのではないかと思います。
もしそのことで悩んでいる人がいるとしたら、それがダメだと思わなくてもいいと、声を大にして言いたい。ダメなのは、それがダメだと思わせてくる環境であって、自分ではないはずです。
別に友だちがいても大丈夫だし、いなくても大丈夫。いつまでも友だちでいられるとも限らないし、いつまでも友だちができないとも限りません。そんなことは気にする必要なし。私が大事だと思うのは、どんな状況でもなんとかやっていけるようになることです。
そのために、「若いうちだからこそやっておいた方がいいと思うこと」として、「自分が楽しめる一人遊びを見つけること」が挙げたいと考えるのです。


アルフレッド・アドラーは「すべての悩みは対人関係」であると言ったそうですが、対人関係とは言ってみれば「あなた」と「私」という関係です。悩みになるのは、「あなた」によって「私」が左右されるからです。「私」が「あなた」に左右されなくなるには、「あなた」と「私」の関係になる手前の「私」一人という状態を安定させることです。「私」さえ安定してしまえば、多少「あなた」が「私」を揺さぶろうとも案外平気なものです。
一人の状態を安定させるには、どうしても一人の状態でいることが求められるのですが、小さいころからとにかくたくさん友だちを作ることを求められ、せっかくの自分の時間が無くなってしまいます。もちろん他人との比較によって自分の輪郭が見えるという側面もありますが、なによりまずは自分です。「私」を安定させるためにも一人遊びが大切だと考えるのです。

一人遊びとは、それが読書でも絵画でも工作でもゲームでもなんでも構わないと思います。私が子どものころによくしていた一人遊びは、今思えばそれって本当に面白いのか?と疑問に思うこともありますが、確かにそれをいつまででもやれていました。
たとえば、トランプの大富豪やポーカーを、一人4役(ひどいときは54役していましたが)など複数人の立場で同時にやっていました。
たとえば、車に乗っているときにはすれ違う車のナンバープレート4桁を覚えて、四則演算で0から10まで、調子が良ければ11以降どこまで作れるか、計算していました。
たとえば、畳におはじきを配置し、相手のおはじきを畳の外に弾き飛ばして最後まで残った軍が勝ちという遊びを2チーム分自分でやっていました。
たとえば、聖闘士星矢の人形でトーナメントの勝ち抜きシミュレーションバトルをやっていました。
たとえば、キン肉マンの超人でサッカーをしたときの最強の布陣を考えていました。

これらの一人遊びから何を得たのかと聞かれても、特に確たるものはありません。しかし、友だちが少なかった私は、これらの一人遊びによって一人で楽しめる術を知っていたので、クラスが本当につまらなく思えても、学校に友だちがいないように思えても、一人でいることが苦ではありませんでしたし、それは今でもそうです。さらに、気がつけば人との関係がうまくいかなくてもまた一人に戻ればいいと思えるようになるベースにもなっていたんだと思います。

大事なのは、誰かが決めたルールだけでなく、少しでも自分の世界観を入れることです。それが「私」を安定させる重要なポイントだと思います。同じ読書でも自分の想像力を高める余地のあるものがよりよいでしょう。同じゲームをするにしても、自分で生み出す要素のあるゲームの方がよりよいでしょう。そうして自分なりに「一人でいること」を楽しんでほしいと思います。

ここ10年ほどでSNSが爆発的に普及しましたが、中でもFacebookは開発時に想定していた利用目的上「友達」申請することを求められています。TwitterやInstagramでは「フォロー」となりましたが、いずれにしても「友だち100人できるかな」どころではなく、何百、何千、何万、またはそれ以上の桁のつながりが、わかりやすく数字で示されるようになりました。満たされない承認欲求を抱える人たちにとっては、それが楽しくもあり、また苦しくもあるようです。今の若い人たちには、過度にフォロワーを求め、過度にいいねを欲しがり、過度に人とのつながりを気にしてしまう環境があたりまえのようにあります。一昔前よりもうんとたくさん友だちを作らなければならない時代です。
そんな世の中に疲れた時にこそ、「一人でいる」ということが生きてきます。一人でいることが平気であれば、人とのかかわりに悩んだとしても、また一人に戻ればいいだけです。一度一人にもどって、そこからもう一度、人とのかかわりを持ち始めればいいのです。
若いうちにはわからなくても、いつか、一人でいられることが強みになる日がやってくるはずです。自信をもって一人でいてください。一人でいられるようになってください。

これは内向型に悩む若者に送るエールです。



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自分の真意を相手にベラベラと伝えるだけが友情の行為ではないということさ。それがわたしの提唱する真・友情パワーだ…(キン肉アタル)