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「人生を変えた師」との出会い #人生を変える学び 舞台プロデューサー 中澤恭子 vol.2

――念願のNBSに入社した中澤さん。ところが、描いていた夢の世界には手が届かず、ましてや仕事を「教えてもらう」ということもできませんでした。10年にわたる厳しい勤務の中、どんな学びを得たのでしょうか。

希望ではない配属、ボロボロな日々

武井:望みが叶って入社したわけですが、いかがでしたか?

中澤:勘の鈍い人だったら何も得られない場所で、一生名前すら覚えてもらえない。そんな厳しい環境でした。佐々木さんには気に掛けてもらったと思いますが、決して優しく教えてくれるようなことはありませんでした。

武井:「これやっとけ、あれやっとけ」と言われるままでしょうか?

中澤:言われないのに、やっておかないといけない状態でした。そして、決して出すぎてもいけない。実際、長期間のプロジェクトに取り組んでいる時、佐々木さんと直接関わる案件が続いていた時は、発熱、蕁麻疹が出るほど身体的にもハードでしたけれど、着実に勘が鋭くなっていく自分が分かりました。いろんなことを教えてもらってのあっという間の10年です。

武井:入社した時は、どんな仕事を担当したんですか?

中澤:初めは本当にお茶出し程度の仕事しかありませんでした。もどかしかったですね。

入ってから知りましたが、NBSは「東京バレエ団」というバレエ団を持っているんです。社屋に大きなスタジオがあって、80人程度のバレエダンサーがスタジオや社屋を行き交っており、私はそのバレエ団と付属のバレエ学校の担当になりました。バレエは、『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』くらいしか観に行ったことがありませんでしたし、「オペラじゃないんだ」「音楽じゃないんだ」「経験が何も生かされない」って、ショックでした。

最初の仕事として、バレエ団員の名前を覚えようとしたのですが、プログラムを手に顔と名前を一致させるのが大変で。宣材写真でメイクをしてポーズをとっているから、全然分からないんです。

それに綺麗な人たちが集団でいると近寄りがたくて。ダンサーはそんなつもりはないんでしょうけれど、ツーンとされているように感じてしまう。でも、くじけないように「〇〇さんですか?」と声をかけるわけですよ。すると、「違います」って。もう、カルタ取りか神経衰弱みたいになりながら、何ヵ月もかけて名前と顔を照合していく。そんなNBSスタートでした。

「傍にいること」のすべてが、学びだった

武井:変化が出てきたきっかけはありますか?

中澤:一人だけ若かったということもあって、同世代の仲間がおらず、しゃべる相手がいない代わりに、ずっと1人で周囲を観察してメモして……を繰り返していたんです。代表の佐々木さんが何か言ったら、すぐ動いての繰り返し。佐々木さんの生活にも関わって、周りからは「花嫁修業ができて有難いと思いなさいね」なんて言われたりもして。

辛かったですが、佐々木さんの傍にいると、だんだんわかってくるんです。理不尽だらけですが、何かすごく統一感がある。多くの人が、怖くて面倒な人だと思っていたと思いますが、実はとてもシャイで優しい、そして適切な表現かわかりませんが綺麗な人でした。動きに無駄がなくて。無駄なんだけど……何て言うのかな。一貫性があるんです。

武井:佐々木さんなりのロジックが見えてきた。

中澤:はい。組織の中ではありますが、佐々木さんと過ごした10年間、緊張感を感じなかった日はなく、心身共に疲弊していたような気になっていましたが、今となると芯のある貴重な時間のような気がしています。

佐々木さんが何かと頼りにしている若手のダンサーを挙げる時、基本的に全員、男性のバレエダンサーなんです。で、「中澤」とおっしゃる。「男子5人ね」って。「すみません、私、女性です」と何度も訂正するんですが、いつも大体、私が5人目。「まあいいか、面倒だし。いいや、いいや」と思っていました(笑)

武井:男っぽかったのかもしれませんね。

中澤:残念ですが、そうなんでしょうね(笑)。とはいえ今思えば、在籍していた10年間、ずっとテストされていたような気がします。というのも、これも佐々木さんが亡くなる前に私に話してくれたことなんですけれど。

ある時、政治家や財界人の方々の集まる公演後のパーティーで、お一人欠席があったようで、「あなた代わりに座りなさい」と言われたことがあるんです。私は、とっさに断りました。社内の先輩方も気持ちは良くないと思いますし、「新参者が隣に座ったら、その方が不快に思われるかもしれないからいけません」って。そう伝えたら、その時は怒られたんですよ。でも後になって、「あの時、あなたはこう言ったでしょ。大体の人は、喜んで座るんだよね。そういうの大嫌い」とおっしゃる。「実はテストだったの?」と思いました。

仕事の結果を左右するのは、型に込める「何か」

武井さん4

武井:佐々木さんのもとで、何を学んだと思いますか?

中澤:自分で考え、自分で決断する、その責任感の持ち方を習いました。何百人も所属する付属のバレエ学校で、大掛かりな発表会を初めてやった時のことです。仕事が多過ぎて、徹夜しても間に合わないんです。バレエ団の舞台を一公演やるようなものですし。生徒だけでなく、親御さんも関わるし、財団としても前例がないため聞ける人もおらず、相変わらず誰も手伝ってはくれない(笑)

その時に佐々木さんが、「あんたね、これは、相手が子どもだということだけで、プロの公演と同じこと。こんなの1件やったら、どんな公演だってできるんだから」って言って私の横を通り過ぎていったんです。怒られているんだか褒められているんだか分からない口調なんです。「褒められた?慰められた?頑張れってこと?」と家に帰ってから解読する感じで。

その言葉は今も残っています。今も、マネジメントやプロデュースという仕事を続けていますが、その両方を、どんな規模であっても、全てに対して丁寧に段階を踏みひとつずつ積み重ねて行くことができますし、アーティストをきちんとケアしなければならないという点では、子どもも大人も変わりありません。

武井:短い言葉から、学び取っていったんですね。

中澤:一言一言が選び抜かれていたというか、第一線で長くやってこられた方なので、重みが違います。

武井:10年経って、辞めることにしたんですね。

中澤:充実した日々を送っていたのですが、このままで終わってしまってはいけないという気持ちに駆られ退職届を持っていくと……破って捨てられちゃうんですよ。聞かないふりをされたり。それを数回繰り返しました。コントみたいに(笑)。

結局、その頃、祖母の体調が悪かったこともあって、家族のケアに時間を割くこともしたい、と話をしてわかってもらいました。

武井:名残惜しくありませんでしたか?

中澤:10年間無我夢中でしたからね。でも最後の日に目立つのは嫌だから、静かに帰ろうと思っていたんですけれど、バレエ団の皆さんが大きな花束をくれたり、色紙にメッセージをくださったり。バレエ学校の子どもたちやお母様たちからも個別に沢山のプレゼントをいただいたりして……なんだかアーティストみたいになって慌ててしまいました。

でも、とにかく目立ちたくなかったので、ロッカーにそういうものを隠していたわけです。そうしたら佐々木さんがその日の全体会議のときに、「見なさい、中澤はこんなに花もらったでしょう。あんたたちはもらえないわよ」って言うんです。最後に褒めるなら、一人の時に褒めて欲しいです〜!って、青ざめました(苦笑)

武井:それすごく面白いですね。いただいたお花を隠すなんて、やっぱりプロデューサー気質なんですね。

中澤:私は裏方だから、本当に恥ずかしいですし、おこがましいと思ってしまいます。だから、泣くこともなく冷静でしたね。「え、そんなに貢献してたかな?すみません」みたいな。 

武井:貢献してきた証ですよ。社会人としての基礎をいただいた10年間が、終わりましたね。

中澤:そうですね。型のような基礎ではなくて、その型に何を込めると何が起こるか、という良い例を、すごく見せてもらった感じです。何にも代え難い学びでした。

ーー独立する道を選んだ中澤さんは、新しい取り組みを始めます。vol.3に続く