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大切なひとが先に死ぬということ

好きなひとには、私より先に死んで欲しい。

昔からずっとそう思っている。

(もちろん、事故とか病気になって欲しいとかではなく、出来たら寿命を全うするような自然な死に方です)

親はもちろん、大好きな友人や恋人、今は居ないけどいつか絶対に飼いたい猫や、心に届く絵や漫画や文章を書く人達、大好きなミュージシャン達。

みんなに、私を残して先に逝って欲しいと思ってる。(うんと年下だったりしたら難しいかもしれないけど)

以前、親友にその話をしたらすごく喜んでくれて、彼女を絶対に看取ると約束した。
死にたくなったら彼女との約束を守る為にも、なんとか生きていようと思っている。
(ちなみに彼女は今すぐ死に関わるような病気とかいう訳ではない。老人になった時の話。)

私は今のところ、祖父母や元同僚などの身近な死を経験し、もちろん悲しかったが、大きな喪失感というのは体験したことが無い。
10代で親を亡くした友人などは、きっと当時は物凄く辛かったと思う。

経験してないから、その辛さがわかっていないだけなのかもしれない。
もし、今の恋人に先立たれたら、新しい恋人にはめぞん一刻の響子さんみたいに「1日でいいから私より長生きして」とか言ってしまうのかもしれない。

でもそれでも、私は大切な人には先に逝って欲しいし、大切な人を看取りたいと思っている。

先述の親友とは、年を取ったらやりたいことを良く話している。
ぬか漬け、梅干し、梅酒、干し柿、干し大根、栗の渋皮煮やら、季節の果実のジャムを時間をかけて作り、縁側のある家で日がな1日飲み食いおしゃべりしたい、と言っては歳取った2人の妄想をして楽しんでいる。

彼女が死んだら私は彼女が漬けた梅酒で1人一杯やりながら、B’zの(2人ともB’zファン)月光を聴き、これでもか!というほど思い出に浸かりたい。

今の恋人も、将来、結婚してたりしたならば、私は生活のそこかしこで、彼の跡を探そうとするだろう。爪切りにもしまだ彼の爪が入っていたら、3日だって一週間だって見つめて過ごしていたいし、彼の好物のキャンディチーズを毎日近所のコンビニに買いに行って、店員さんにキャンディチーズのおばあちゃんと呼ばれたい。

とにかく、とても不謹慎だけど、そんな想像をするだけで、軽く高揚してしまうくらいだ。

今まで当たり前にそこに存在していた人が居なくなる。残るのは、その人がそこに居た、と証明する証拠だけだ。遺物だったり、思い出だったり、場所だったり。
居ないけど、その人を形作っていた輪郭だけが残った世界。

大切なひとが先に死んでしまったら、その人が関わったすべてのものが、今度は私の中で生きてくる気がするのだ。

そんな世界を、私はとても見てみたい。

きっと強く感じであろう、悲しさや寂しさの心の痛みも、その人をより感じられる為の手段となるのだろう。

私はそれらを、もう存分に!ひたすらに、味わいたいのだ。
それはもうただただ、欲求でしかない。


この本は、そんな私の欲望を余すとこなく、というかもう想像以上はるか次元の高い位置で表現してくれています。

でも、こんな私は、やっぱり岩井さんのように何も分かってないのだろうな。


以上、木皿泉さん著、昨夜のカレー、明日のパンを読んだ感想?でした。

ちなみに、私はドラマ版の、テツコさんが岩井さんの買ってきたお弁当の唐揚げをほうばり、泣きながら、「一樹は死んでないって言ったけどさ、そんなことないよ。だって、ごはん、食べないもん」
っていうシーンがたまらなく好きです。(小説版には無かった)

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