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【対人関係論】コミュニケーションで大切な3つのこと

「これまでの人生で一番頑張ってきたことは何ですか?」と聞かれたら「対人関係」と答える。「一番悩んだことは何ですか?」と聞かれても、迷わず「対人関係」と答える。

対人関係/コミュニケーションについては、本当に長いこと苦しみ悩んできたし、たくさん調べて学んできた。いまだによく悩むけれど、自分として「これなのかな」と思えるところまで来たので、ちょっと一旦言葉にしてみようと思う。

結論から言うと、コミュニケーションで大切なのは、

①自分が当然に受け入れてもらえると信じること
②まずは自分が楽しむこと
③「本当に」思うこと

の3つだと考えている。

詳細は追ってお話しますが、ちょっとまずは、私の悪戦苦闘の歴史からお話させてください。

【編集後記:かなり長くなったので、時間のない方は「コミュニケーションで大事な3つのこと」から読むことをオススメします…!笑】

悪戦苦闘の歴史

「私ってどんな人間?」と知り合いに聞いたら、多くの人が「元気で明るい」とか「外交的・社交的」と答えると思う。中には「コミュ力が高い」と言ってくれる人もいるかもしれない。

正直これは、私にとっては非常に嬉しい回答で、私が「こう見せたい」「こんな風に見てほしい」と思っている印象そのものだ。

私は、他人から「明るい」と思われたい。また、最近友達に指摘されて気付いたのだけれど「テキトーでおおざっぱ」な人間だとも思われたい(のだと思っている)。

もちろん「明るい」「テキトーでおおざっぱ」な部分も自分の中にはあって、その自分も決して嘘ではないのだけど、それ以上に、内省的でネガティブで、繊細な側面が強い。数回会っただけでは、多分この「深い暗さ」みたいなものは伝わらない。(でまあ、この「深い暗さ」みたいなものを知ってもらいたくて、こうやって文章を書いている。)

それで、私はそうやって「印象操作」なるものを長いことしてきて、おかげで染み付いたポジティブさもあるのだけど、「自分」というものが分からなくなった。
そんなグラグラな状態で他人とまともに関われるわけもなく、「地に足が付いていない」感じになっていった。

というか、もともと地から足が浮いていたのだろうな。

高校1年生のある出来事をきかっけに自分の足が地面から浮いていることに気付いてしまい、一生懸命バランスを取ろうともがき始めるのだけれど、逆にバランスを崩して苦しみ続けた。それで、最近やっとのことで地面と接着できるようになった。そんな感じ。

さて、長くなりそうですが「高校1年生のある出来事」から書いていきます。しばしお付き合いください。

【歴史①】高校時代:自他の区別を認識し、何も上手くいかなくなる

高校時代は、間違いなくこれまでの人生で一番辛い時期だった。

当時を思い出そうとすると、ほとんどの景色に、薄暗い「もや」みたいなものがかかっている。
毎日強い痛みを感じていて、大半の時間を絶望することに使っていた。すべてが上手くいかなかった。(少なくとも、当時の私は「すべてが上手くいかない」と感じていた。)

面白いのは、高校時代から仲の良い友達にこの話をすると「全然分からなかった」と言われることだ。前述のとおり、私は「明るくてテキトーでおおざっぱ」に振舞うくせがあるので、苦しんでいる姿や弱みをそのまま人に見せることが非常に苦手である。いつも、きれいな状態の、楽しい自分だけを見せたいと思ってしまう。

ということで、表面的には楽しそうに振舞っていたけれど、実際のところ、ずーーーっと苦しかった。激痛に耐えていた。

この「苦しみ」が始まった瞬間を、歯車がずれ始めた瞬間を、今でもはっきりと覚えている。


高校1年生の6月頃、その言葉を、倫理の授業中に聞いた。

しんとした空気の中を、低く抑揚のない声が響く。先生の声から、特殊な音波が出ているのかと勘ぐってしまうくらい、眠気を誘う授業。見渡すと、半分以上の生徒が居眠りをしている。

私はその日、居眠りまではしないものの、特に気を付けて授業を聞いていたわけではないので、この授業が教科書のどの部分にあたるのかということは全く理解していなかった。たしか、随分昔の西洋哲学の話だったと思うが。ぼーっとしながら、ときどき耳に引っかかった話を聞いていた。

「自己は他者によって規定される。」

先生がこの文章を読み上げたとき、なぜかその言葉が自分の中にスッと入ってきた。ゆっくり2,3回瞬きをして、先生の方を見る。

自己は、他者によって、規定される。

なんとなく言いたいことは分かる。でも、全く腑に落ちない。自分以外の人間が存在していることは当然のこととして認識していた。空気がある、時間が進む、それと同じように、自分以外の人間が存在することを疑問に思ったことはなかった。
ただ、自分と他人の区別について考えたこともなかった。ほんの少しでも意識を向けたことがなかった。嫌なモヤモヤ感だけが残った。

何も解決しないままぼーっと4時間目までの授業を受けて、昼休憩の時間になった。お母さんの作ってくれたお弁当を食べながら、1時間目の倫理の授業を思い出す。倫理の資料集に載っていた哲学者の名前と顔は思い出せないが、先生の言葉は正確に思い出せる。

「他者ねえ。」

周りを見回してみる。

似たような背格好のクラスメイトが何人もいる。スマホをいじりながらご飯を食べていたり、イヤホンをして音楽を聞いていたり。仲の良い友達が、他の生徒と楽しそうに会話しながらコンビニのおにぎりを食べている。

「他者。」

みんなそれぞれ、自分とは違う考えや価値観を持っている?

「他者、他者、タシャ…。」

みんな、何を、どんな風に考えているんだろう?あれ、そもそも、自分ってなんだろう。

「自己、自己、ジコ…。」

頭と目線を下げて、自分の胴体を眺める。半袖のTシャツの下に、見慣れた身体の形が見える。

「あれ、自分、って、なんだ?????」

何も考えられない。言葉が出てこない。服の下に、見えている皮膚の中に、何かが入っている気がしない。大きな空洞を感じる。お腹のあたりにぽっかりと黒い穴が空いていて、その穴に落っこちてしまうような感覚になる。

どうしよう、「自分」が何を考えているのか、全く分からない。

地面があって空がある、それだけの世界だったのに。
この地面は「地球」という星の一部で、広い広い宇宙の中には他にも同じような星が存在すると気付いていまった。この星は、無限に存在する星の中の1つにすぎない。急に自分の地面がおぼつかないもののように感じられて、広い広い暗闇に放り出されてしまったような、恐ろしく心細い気持ちになった。果てのない宇宙を考えると、頭が痛くなる……


と、ちょっとストーリ仕立てに書いてみましたが、「他者」を認識したことで「自分」というものを意識してしまい、「自分」を完全に見失った。それで、ちょっとしたパニック状態になった。

そこから、他人との距離感が全く分からなくなった。落ち着いて会話をすることができなくなってしまった。ちょっと距離を詰めたかと思うと、相手が離れていくのが怖くて、自分から拒絶した。他人が自分の意図通りに動かないことに動揺し、怒りを覚えた。「どうしたら親しくなれるのか」と悩んだ結果、不自然に急いだ自己開示をすることもあった。

とまあ、とにかく問題しかないコミュニケーションを続けた。

でも(なぜか、)仲良くしてくれた友達がいた。今でも何人かはずっと仲良くしてくれていている。マジでめんどくさい人間だった[人間だ]と思うけど、ほんとにありがとう。あの高校時代を生き抜けたのは、みんなのおかげです。
と、少し大げさな表現ですが本気で思っています。

【歴史②】大学前半:刺される前に刺す

そんな感じで、何も上手くいかない高校生活でしたが、1つだけ得意なことが見つかりました。そうです勉強です。受験勉強です。

あまりにも複雑で、何が正解なのかが全く分からない対人関係に比べて、受験勉強は非常に簡潔だった。「必ず答えにたどり着ける」というのが快感だった。傾向を見つけて、必要な知識を覚えて、同じように問題を解けばいい。もちろんプレッシャーは大きくて、最後のほうは泣くぐらい辛かったけど、全体としては非常に楽しかった。

何より、得意だった。努力が数字にすぐ表れたし、みんなが褒めてくれた。マイナスの域に入っていた自己承認みたいなものが少し満たされて、ちょっと自信がついた。それが、対人関係にも良い影響を与えていく。

大学生活は、毎日通学していた高校時代に比べてストレスが減ったのかもしれないし、開放的で縛られない雰囲気が自分に合っていたのかもしれない。とにかく、大学に入ってずいぶんと精神状態が改善し、対人関係に関する苦手意識は減った。

それでも、まだ成功体験が少なかったというか、他人に受け入れてもらった経験を積めていなかったので、根本には強い恐怖があった。
だから、コミュニケーションの取り方は、かなり頑なというか、「刺される前に刺す」「殴られる前に殴る」という感じだった。自分の本音を出すことは到底できなかったし、反射的にマウントを取ってしまうことも多かった。(ごめんなさい。)

そんな感じで、1回ごとのコミュニケーションはマシになっていったけれど、人から好かれることは少なかったし、なかなか継続的な関係は築いていけなかった。

【歴史③】大学後半:コロナと恋愛で変わり始める

そんな私に、転機が訪れます。

転機1:コロナ

おぞましいものとして語られる(実際におぞましい)コロナですが、わたし個人に対しては非常にいい影響をもたらしました。

まず、人と会えなくなった。会わなくなった。会わずに済むようになった。

1人の時間が半永久的に続く感覚は、私を驚くほど安心させた。妙な焦りがなくなって、どうでもいいことをたくさん考えられるようになって、人生が楽しくなった。「私は1人が好きなんだ」と気付いた。「人と会わなくても良いんだ」と思えるようになった。

それまでは、スケジュール帳の空欄は埋めるものだと思っていた。人と会う予定をたくさん立てるのが「充実」だと思っていた。でも、そうじゃなくって、1人でいて、落ち着いて色んなことを考えて、ゆっくり本を読んで、音楽を聴きながら散歩をする時間に、強い幸せを感じた。

その上で、ときどき人と喋ると、びっくりするぐらい楽しくて、「友達のありがたさ」を実感するようになった。最高のスパイスは空腹だと言うけれど、私は常にバイキング会場にいるみたいな状態だったんだと気が付いた。

転機2:恋愛

私はこんな感じでコミュニケーション不全を抱えているくせに、恋愛は人並みにしてきた。

恋愛は構造が分かりやすいというか、流れが決まっていて比較的再現性があるから、友達関係ほど悩まなかった。というか、だいたいが「上手くいかなくて悩んでるんだよお~」と口に出せるくらいの些細な悩みだった。(もちろん、)恋愛が(継続的に)上手くいったことはなかったですが。

そんな私も、大学生の後半になるにつれて、まあまあ長く付き合うようになっていった。別れるたびに反省して、学びを得て、まっさらな自分で相手と向き合った。

そんな感じで、対人関係の分野において、一番最初に苦手意識を克服したのが恋愛だった。

1対1の関係で価値観をすり合わせたり、自分の感情を冷静に伝えたり、時にはぶつかったりすることで、継続的で親しい関係の作り方みたいなものを学んでいった。

【歴史④】自己受容→他者への恐怖が消えていった社会人2年目(休職期間)

失敗しても懲りずに人と関わり続けることで、なんだかんだ「受け入れてもらう」という経験を積み重ねていった

もちろん、相手の「受け入れるよ」という気持ちに気付けないことも、拒絶してしまうことも多かった。

しかし、「拒絶されるかもしれない」と怯えながらも自己開示をして、「それでもいいよ」と言ってもらう経験をした。「話してくれてありがとう、私はあなたのどんなことにも興味があるよ。だからこれからも、なんでも話してほしい。」と言ってくれた友達の言葉を、優しい声の調子を、私はずっと忘れないだろう。

そしてここ最近、格段に状態がよくなってきたのを感じる。
きっかけは、休職と退職。過度な労働に精神状態が限界を迎え、2か月間ほとんど人と会わない生活をした。

その間、ひたすらノートに文字を書いていた。

隠していた本音が見え始め、自分の輪郭をなんとなく認識するようになった。自分の苦手なこと、嫌いなこと、どうしてもできないことが言語化され、逆に、得意なこと、好きなこと、自然とできることが分かっていった。そうしていたら、等身大の自分を、自然と受け入れていくようになった。

自分を受け入れられるようなると、不思議と他人が怖くなくなる。嫌われることや傷つけられることを、過度に気にしなくなる。
2カ月の引きこもり期間を終えて、少しずつ人と会うようになると、前よりちゃんと「向き合えてる」感じがした。より本音で話せるようになり、自分を守るための殻が前よりも薄くなった。それに、みんなが自分を好きになってくれている気がする。(ほんとは変わっていないのかもしれないけど。)

という感じで、今、結構いい方向に向かっているなと感じる。もちろん、またすぐに落ち込んだりするんだろうけど、対人能力を示す棒グラフは、時々降下しながらも全体としては確実に上ってきていると思うのです。

【番外編】いまの課題:先輩とのコミュニケーションに悪戦苦闘

そんな私の現在の課題は、先輩(こちらが一方的に相手に対して敬語を使う関係性の人)と継続的で安定的な関係を築けないことです。
これに関しては、半年近く考え続け、問題点と解決策が見えてきたところなのですが、これを書くと収集がつかなくなりそうなので、また改めて書きます。

コミュニケーションで大事な3つのこと

歴史編がずいぶん長くなり恐縮ですが、そんな対人不安を抱えながらもがき続けた私が考える、コミュニケーションで大事な3つのこと!

私は学びぐせがあるので、コミュニケーションに関するたくさんの本を読んで、動画を見て、人のまねをして。最初は技術的なところから始めたけれど、結局大事なことは以下の3つなのかなと思っています。

ちなみに、「技術」を身につけることで、恐怖心を抑えながらコミュニケーションができるようになるという経験をたくさんしてきたから、「技術」も侮ることなかれ、だけど。

①自分が当然に受け入れてもらえると信じること

私の友達には、キラキラした粒子が周りを飛んでいるような、「天然の良質なハッピーオーラ」みたいなものを出して生きている子が何人かいる。

彼女らの共通点として、私の姿を見つけたら笑顔で駆け寄ってきて、本当に嬉しそうな顔をしてくれる。褒めることにも、好意を伝えることにも躊躇がない。他人の幸せに対して(とてもじゃないけど演技とは思えないような)喜びを見せる。自分と違う属性の人にも当たり前のように話しかけて、笑顔で質問ができる。なんというか、「周囲の人が自分を拒絶する/否定する/傷つける可能性」みたいなものを全く考慮していない。

私は最初「キラキラ眩しい…」と戸惑ったし、自分と比べて劣等感を持ったこともあったし、「本気でやってんのか?」と斜めに見てしまったこともあったが、関係が長くなれば「安心感」とポジティブな感情だけが残る。彼女たちは、きっと(私がひどい態度を取らない限り)ずっと好きでいてくれるし、いつ会っても歓迎してくれる。少なくとも、突然拒絶してくるようなことはない。そして、保身のために、私を積極的に傷つけたりしない。

彼女たちは多分「自分が当然に受け入れてもらえる」と意識的に考えてはいないのだろう。でも、経験から、当然に受け入れてもらえることを知っている。そこから生まれるポジティブで自然な姿勢が、ますます人を惹きつけるのだろうと思う。

もちろん、彼女たちを完全にマネするつもりはない。というか、できない。

だけれども、「自分が当然に受け入れてもらえると信じること」の根源的な力を、私は彼女たちから学んでいった。

「条件付きでない愛」に目を向けること。自分に向いている好意を、言葉にしてもらうこと。他人から当然に受け入れてもらった経験を、意識的に溜めていくこと
攻撃されたときに「変な人だな」と、拒絶されたときに「そういうこともあるか」と思えるくらいに、安全な体験で分母を埋め尽くすこと

そうやって「なんだ、敵じゃなかったのか。」ということが腑に落ちたとき、私たちの対人不安はきっと過去の出来事になる。

②まずは自分が楽しむこと

続いて「まずは自分が楽しむこと」。これは、簡単にできて速攻性がある。

このマインドは、21世紀最大の問題作にして神作である『スパルタ婚活塾』(BY水野愛也こと水野敬也先生)で学んだ。

水野大先生は、こう言う。(ちょっと口が悪いですが、こういうスパルタ・カリスマ教師の設定だと思ってください。)

……デート中にお前たちが気をつけなければならないのは次の一点である。

デートを楽しむ

 言うまでもなくデートというのは共同作業である以上、盛り上がっているときは二人とも楽しいし、盛り下がっていれば二人ともつまらない。もしお前が「めちゃくちゃ楽しかった!」と言っているのに男が「クソつまらんかった」という状況が起こり得るのは、デート場所は雀荘で「男の捨て碑でお前が国士無双をアガった」くらいなものだ。
 つまり、お前がデートを心から楽しめていれば、ほとんどの場合そのデートは成功ということになる。

水野愛也氏『スパルタ婚活塾』68頁
第4講「ライフ・イズ・ビューティフル理論」より

これ、すごくないですか?

大学1年生のときに初めてこれを読んで、頭を殴られたような衝撃があり、即座に実行に移した。1対1のデートで、まずは自分が楽しむ。そのために、楽しい場所や会話を選ぶ。無理をしない。遠慮せずに話す。そして「楽しい」と思ったら、「楽しい!」と口に出す。

びっくりするくらい効果があった。

私が「楽しい」と口にすると、みんな表情が緩んだ。「よかった」と安心した顔をして、「楽しいね」と返してくれた。そこからポジティブな会話が進んだ。

何より(楽しむ工夫をすることで)こっちは本当に楽しい時間を過ごせる。「相手も楽しんでいるだろう」と思い込むことで、「楽しめているかな…?」と不安になることがなくなっていった。当然、不安が表情や態度に表れることもなくなった。

そして、私は気付く。「これは、どんな人間関係にも使えるぞ」と。

誰しも(程度の差こそあれ)一緒にいる相手のことを「ちゃんと楽しめているかな…?」と不安になるものだ。もちろん配慮に欠ける言動はよくないけれど、バランスとして「まずは楽しむ」方向に意識を切り替えるのは、非常にオススメです。

③「本当に」思うこと

最後の1つは、自分の発するポジティブな言葉と連動して「『本当に』思うこと」。

嘘は、バレる。
バレなかったとしても、自分の感性が少しずつすり減っていく。そうやって、最終的には嫌になってしまう。
だから、伝えたい言葉や感情があるなら、誘導して(自分が)本当にそう思うように仕向ける

相手を褒めたかったら、一生懸命に良いところを探す。というか、常にアンテナを張っておく。「あ、ここいいな」と思ったら、はじめて「こういうところ素敵だよね」と声に出す。

上記②に関連させて言えば、「楽しみたい」と思ったなら、実際に楽しむ工夫をする。自分が「楽しい~」と思いやすいような場所に行って、会話を選んで、意図してリラックスをする。そうしていれば、自然な笑いが起こるから、そのタイミングを逃さずに「楽しい!」と口に出す。

ポイントは、「楽しい、楽しい、楽しいんだ…」と言い聞かせるのではなく、本当に楽しくなるように環境を整えること。自分に対して精神的なプレッシャーをかけるのではなく、物理的な誘導をする。

そうやってポジティブな本音で会話をしていれば、自然な好意が伝わって、相手も自分を好きになってくれる。
これが結局のところ、幸せになるための近道なんじゃないかな。

おわりに

ずいぶん長くなりました。ここまで読んでくれた人がいたら、本当にありがとうございます……。


今は、胸を張って「人が好き」と言えるようになった。

人が好き。
人と会話をするのが好き。人と出会うのが好き。
人を知りたいと思う。人に興味がある。
どんな人生を歩んできたのか、どんなときに感情が動くのか、どんな言葉で表現をするのか。
自分を知ってもらいと思う。自分を「好き」と言ってもらえることが、思ってもらえることが、この上なく嬉しい。
それで、自分を大切にしてくれる人を、好いてくれる人を、私もずっと大事にしたい。

こんな言葉が、違和感なく自分の口から出てくる日がくるなんて、思ってもみなかったな。

過去の自分自身の「苦しみ」を、そして現在進行形で深い底にいる他人の「苦しみ」を、前向きな言葉で表現するつもりは(そんな短絡的で身勝手なことを言うつもりは)決してない。
だけれど、悩んだ分、果てしない暗闇に沈み込んだ分、「人生のおくゆき」だとか「人間としての深み」みたいなものが出てくるんじゃないかと思う。
そして、それはいずれ自分の固い地盤になり、穏やかに人の目をひくような魅力に変わるんだと思う。

やっぱり人生は、諦めないほうが楽しいよな。

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