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しらなかったもの


知らなかったものを知っていくということ。
素晴らしい事であり、成長であり、ちょっぴり寂しい。


生きていくにつれ、社会で生きていく上での知らなかった事は段々と、しれっと、当たり前に知っている事になっていて、知りたくなかった事や知らなかったら危なかったような事まで自分の知識として吸収されていく。


私はどちらかと言うと、「知りたくなかった事」なんていうものはあまりない。
もちろん理論上、完全に無いわけではないです。見なきゃ良かった〜とか、知らない方が幸せだった〜とか。そんな経験は山ほどあります。
でも総じて見ると、知らなきゃ良かった事っていうのも意外と自分の身になり軸になったりしているんです。



彼がいる街

聞いたことのあったその最寄駅の名前には、今まで一度も降りたことがなかった。
たしか一度だけ、乗り過ごしたか何かで乗り換えに使用した程度だ。
この先も特に用がない限り人生で一度降りるか降りないかの駅だった、はずだった。
今ではどうだ。
当たり前の顔をして駅を降り、1人でも彼の家に行けるようになっている。
あそこのローソンでトイレを借りよう、あそこのスーパーに行ってからいこう、あそこのパン屋は美味しい、なんて事も当たり前のように考えたりもできるようになっている。
ほんのついこの間まで、そのローソンもそのスーパーもそのパン屋のパンの味も、私の中には存在していなかったというのに。
知る由も知れる機会も無かったというのに。
この街を全く知らなかった自分が、今ではもう完全にいない。


不思議だ。

知らないを知る=(イコール)初めてがなくなる

だからきっと寂しくもあるんだね

人と関わっていると、ひょんなことから全く知らなかった物や街や音楽や、なにからなにまで急速に知れてしまったりする、知り合えてしまったりして、逆に興味を持ったり、もっと知りたいとまで思ったりする。不思議。でも素敵。最高。
普通に考えて、「知り合う」って言葉が素敵すぎるな。

みんなもっと知り合えよ、なんて思います。


自覚

私が彼の家にスラスラ行けるようになっても、彼の家にある物の位置を正確に把握し始めても、それはそれで良い。
段々、”知らない”がなくなってきても良いんです。
“知らなかった時の自分を知っている”と自覚さえしていれば、「知らないを知ってしまった自分」についてずっと寂しく思う必要なんか無いんです。


そこがミソです。
何事も。
淡々と、段々と、黙々と 、過ぎていく日々の中で、あながち忘れがちなものは童心です。
流石に色々と知ってしまっている以上、完璧な子供心に戻るのは難しくもあり、正直そんな暇もありません。

でも時として、何かにぶつかったり、逃げ出したくなったりした時に助けてくれるものってもしかしたら”童心”なのかも知れません。
もはや戦争をも無くせる最終兵器だとさえ思っています。


知る

「知識」は裏切らない、なんて言いますが紛れもなくこれは事実です。
自分で見た物、感じたものが自分を守ったり、楽しませたりしてくれるんですから知識はあるに越したことはないんです、結局。
ただその知識は誰かに振りかざすものでも誰かを傷つけるためのものでも無い。

自分を守るためのものということを忘れずに、自分の目で見た物を自分だけの知識として吸収していけたら怖いものなんてないんじゃないかと思います。

そして私が思うのは、他の人にはこれっぽっちもない知識を自分の中で見つけたいということです。
だから、さっきも言ったように色んな人や街と知り合ったりして、見たり知ったりしていく必要があるようなのです。

最後に

もし、自分の記憶がなくなったらと考える事があって、それでも完全に覚えている事がひとつだけ選べるとしたら皆さんは何を覚えている自分を選択しますか。

私は”文”です。
文字を読めてそれで感じる感性だけは覚えていたいです。

この1年間を振り返っても、文にはたくさん助けられました。
そして、noteというこの場所でも自分をたくさん見つけられました。
自分の事を良くも悪くも、ここまで知れた年はなかったかもしれません。

文字を読むという事だけ忘れなければ、私は私の事をまたここで見つけることができる。
本棚に重ねられている数々の本をまた読み漁り、自分をまた築けあげていける。
そう思うのです。

そうすれば、きっとまた大切な人達には必然的に知り合えると信じているから。

もしかすると、私にとっての”文”は誰かにとっての”絵の具”や”音楽”だったりするかもしれませんね。

知り合うという糸口は、いつだって意味があるのだと思います。
私がそこにいたから知り合ってる人達。
偶然なんかじゃなくきっと出逢うべくして出逢っていますし、出逢えたのも私が私を知っているからなんです。
そして、私が私を知っているのは”文”のおかげでもあるということなのです。




どうやらnoteを初めて1年が経過したようです。

この間の記事でnote納めになるかと思いきや、今回がnote納めでした…

来年もたくさん知り合って、たくさん書きます。
陰ながら見てくれている方々も、たまに見てるよ!と生で声をかけてくださる方々も
まっじで励みです。
ありがとうございます。
来年も何卒よろしくお願い致します。

お餅はゆっくり食べてね


愛菜

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