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踊っていこうよ少数派

この間、野外フェスに行った。
レイヴというかライブというかフェスというか、
“大きなお祭り”というのが1番しっくりくる。

名古屋の方なら大半がご存知、豊田市で行われる「橋の下大盆踊り」という大きなお祭り。(3DAYS)。
私の夏の最後の祭りはこの、橋の下だった。

そこでは、色んなアーティスト達が「夏をここでやりきるぞー!」と言わんばかりの熱量で芸を披露していた。
暑苦しい音、暑苦しい歓声、本当に暑苦しい気温。
このお祭りは、それら全てを巻き込んで1つのモノにしていた。

感想をひと言で言えと言われたら、ただただ楽しかった。この言葉に尽きる。

物凄い規模の祭り、宴。
老若男女、妖怪、もののけ、けだもの、皆が踊りに来る祭り。
2日目の夜には雷神様をも呼び込んだ。
神もまでもがドタ参するこのとんでもない祭りは、本当にイカれていた。良い意味で、クレイジーだった。


豊田に架かる大きな橋、豊田大橋。
その真下で、人間に化ける妖怪たちによる妖怪たちの為の小さな街並みが3日間限りで作られた。

朝から、昼から、夜まで、なんなら朝まで。
朝5時までやっているお店もあったり、そこでいつまでも呑んで騒いでいる野郎どももいる。
ステージから音が流れればたちまちステージへ走って向かい、騒ぎ、喚き散らし、泣きながら踊り、歌いながら笑う。
それの繰り返しで酔っ払って動けなくなる情けない者まで多々現る。
ただその者たちも、コレをしにここへ来たんだ、と言わんばかりの幸福そうな顔でへたれこんでいるのだ。

まさに、カオス。
カオスパーティ。
大盆踊り、とついてるだけあって3日間毎日どこかのタイミングで盆踊りをする時間がある。
もちろん私も踊った。
めちゃくちゃ、盆踊った。
あんなに盆踊ることはこれから先滅多に無いだろうと思う程には、間違いなく踊った。

色々混ざってなにがなんだか分からなくなっている者も、酔っ払い過ぎている者も、シラフの者も
子供も、妊婦さんも、海外の方たちも、妖怪も、全員一つになって舞台上から奏でられる盆踊りのメロディを崇めるように手を縦に振ったり横に振ったり、叩いたりして輪を目出さぬよう前に続いて周りながら踊った。

「音楽で一つになる」というのは、まさしくこういうことだ。一つになれてるその瞬間とその場が、私にはとっても居心地が良かった。心の奥底から笑顔が漲った。

こういう文化は遥か昔から伝統とされてきて、今もこうして受け継がれている。
昔の人達が教えてくれたその一つ一つの伝統を私達はちゃんとこれから先もこうやって受け継いでいかなければならない。
発達とか進展、進歩していく世の中だけれど、
それだけが全てじゃないんだぞ、進歩=良いっていう考え方はもう古いんじゃないか?と教えてくれた気がした。
もっと根本的な、簡単なものがある。
笑顔がつい内からこぼれ落ちてしまうような心踊らされる物とかシーンって、よく大地を踏みしめればきっともっと感じられるものなんだと思う。
ソレには、お金もかからないし、ブルーライトで目をやられたりもせずに得られる物なのである。

橋の下大盆踊りの公式チームから配られた「橋の下新聞」の端にも同じような事が書いてあって、読み進めていくうちに目頭がつい熱くなった。


元々「普通」なんて分からないけれど、世間が思い浮かべる「普通」が世の中の「普通」だとするならば、私は完全なる「異常者」で。
異端派。はみだしもの。くず。あくまで、世間の「普通」に合わせたらの話だが。
間違いないのは、「少数派」であるということだ。

でもこの祭りは、その少数派をもマジョリティに変えていた。
逆にこの祭りのその3日間だけは、世の中でいう「普通」に沿って生きている人達は浮いて見えた。
それが悪いとか良いとかではない。

ただ、私達少数派の人間も、かき集めれば多数になるという事。絶対に忘れちゃいけないな、と思ったのだ。
「少数」に見えても、一緒に妖怪になって踊り狂える仲間たちがいる。
少数派は、確かに孤独を感じやすいよ。この現代社会では特に。
でも、自分だけじゃないと思えるだけでその孤独はどこか馬鹿らしい物にも見えてくる。
○○君よりこうだ、○○ちゃんの方がこうだとか、関係なしに、「自分はこうだ!」で物事突き進めていくのも悪くないのではないだろうか。
何にでも比べたがる現代社会で自分の居場所を作っていく、再確認していくのは他でもない自分にしか出来ない事だ。
「少数派」を自分の中の「多数派」にしていく事は、確かに難しいけれどそれが出来て行けたら強いなとも思う。

「出逢いは人の数だけある」とよく言うけれど私はもっぱら”踊れる人”が好きだしそういう人達の中で生きていきたいと思うから、人の数だけあるというのはここで覆される。
私的に、「出逢いはミラボールの小さなガラス鏡の分だけある」と、思っている。
何をダサいことをほざいているんだと思われるだろうが、リアル、「人の数だけ」は多すぎだ。

イメージ(この間書いた絵)


でもそうやって、フィールドを自分で決めていいのだと思う。


同じマインドの人達、同じバックボーンを持ってる人達や同じ孤独な人達、とにかくこの祭りは何か勇気をくれるような特別な祭りだった。
こういう人達とは、名古屋だろうと、東京だろうと、沖縄だろうと、国外だろうと、どこに居てもいつかまた絶対に会える気がしている。少なからず私が知っている踊れるマインドの人達は見掛け倒しじゃない。たとえ会えなくても、不安になるような関係じゃない。
ちょっとスピリチュアルな考えになってしまうけど、自分が東京で踊っているように、橋の下で会った人達もきっとどこかで踊っている。

「あの人、ピースでいいよね。」「あの子いつも笑ってるよね」と褒め合えるような、粗探しなんて時間の無駄な行動がこれからも慎めるような自分になりたいし仲間たちにもそうであって欲しいと願う。幸いにも音楽という最大の武器を楽しめている私達は、この武器を平和の象徴として活用していくほか無い気がしている。


だから私はこれからも「少数派」としてでも踊っていきたい。



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