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バールのようなもの

文を書きたいと思い立つ時は大体良い本や良い映画を見た後の事で。
それ以外は、iPhoneのメモ欄に溜まっていってしまっている無意味そうな言葉たちの数々を消費したい時だ。

私にとって”文”は鬱陶しいぐらい頭の中に不意に積み立てられてしまう存在で。
時として読書をしている最中だとか、セックスの最中だとか。
急に降ってくる事があるので全ての文を表現する事は案外難しい。
区切りがいい所まで読んだら降ってきた言葉たちを書き連ねてみようと思っても、本を閉じた時には何を書こうか大半覚えていないのである。むろん、セックスを中断してまで文を書くほど馬鹿じゃない。


タイトルでお気づきの人は多いかと思いますが、私が物書きに目覚めたきっかけの映画でもあるあの映画をを久しぶりに拝み観た。


どの映画でもそうだが、
映画を観た後に毎度思う、”敏感な感覚”が私は好きで好きで堪らない。

駅の改札の音だったり、色んな人の色んな靴が奏でる色んな音、小さな声から大きな声、笑い声から時としては泣き声まで。こだまして響きあってひとつの”ざわめき”になる。
その、日常のバックサウンドが直接私の耳に入ってくる。
紙を捲る音やキャンディの包み紙を剥がす時の音のように、少しゾゾっとする音を聞く時のように。繊細に、敏感に自分の中に入ってくる。

あの映画の好きな所はこういう繊細さが、映画中から感じられる所だ。リアルそのものなのだ。



“地上の全てを諦めたら、人はいつか空を飛べると誰かが言った。”


私もそろそろ飛べるんじゃないか。
もはや飛んでみたいの方が強いのかもしれない。
いや、私の場合もしかしたらもうとっくに飛んでいるのかもしれない。


今私が勤務しているのは東京某所の”高級”がつく方の飲食店で。
諦めずして空を飛んでいるカラスのような連中ばかりが集い、個室ばかり指定したがる。

そういう人達の中には大抵「シャルドネをボトルで」と一声を挙げるひけら顔の眼鏡男が潜んでいて、高ければなんでも美味いと思っている。
料理なんて何を食べても一緒なんじゃないかと思ってしまうほど、高級食材を口にしては賭博の話をしながら貪り食われる食材たちに心の中で何度謝ったことか。


こういう人達に”感動するツウな映画”を語らせたらやはり、”ショーシャンクの空に”がランクインするんだろうし、
「風の音」「鈴の音」なんていう素敵な言葉たちを平気な顔で”風のオト”、”鈴のオト”と読んでしまうんだろうな。
お前らにとってのツウは一体なんなんだ。
社会性に縛られすぎて変換の選択も欠如してしまったのか。それじゃあ全くAIと変わらないじゃないか。
どうしてこういう大人達を敬わなければいけないのか、と毎度疑問に思いながら笑顔を引き攣らせているのである。



映画中の、運送業者のトラックの運転手がトラックごと全部放り投げて東京湾に沈めた話。
あそこのシーン個人的にはすごく好きで。
逮捕された運転手が取り調べて放った、「誰でもできる仕事なんてやりたくなかった。おれは労働者じゃない。」という言葉、あの言葉で核心を突かれた人も少なくなさそうだ。

私は、労働者にもAIにもなりたくない。

「結局、君は何なりたいの?」

私は時代になりたいのだ。


社会性と協調性は才能の敵だから負けるなよ。と誰かが言って死んでいった。
何が基準で負けなのか、勝ちなのかは分からないが、今のところ社会性も協調性も皆無なのでまだ負けてはいないようだ。

本当の”存在”というものは、なくなっても尚そこに存在し続けるものだと野田洋次郎も歌っているように、私たちは”時代”そのものになる事でその存在を互いに確認し合っていける。


もう、空
飛んじゃいませんか


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