起死回生バッテリー
投げ放った渾身の一球が、いとも簡単に弾き返される。
『痛烈ッーー。ライト線に抜けたァ、一塁ランナーは二塁を蹴って三塁へ』
球足は速く、人工芝上を勢いよく駆けていく。
俺はマウンド上で滴り落ちる汗を拭った。呼吸を落ち着かせ、ナイター照明を浴びるように天を仰いだ。
「くそつまんねえ、終わってたまるかよ」
スタメンマスクを被る、全日本主将の山里亮介を睨む。
『おおっと浦辺投手、バッターをまるで射貫くかのような目つき』
『野獣、浦辺。全盛期より衰えたなんて声がありますけど、彼ほど国際大会の経験も豊富で頼れるリリーバーはいないですよ』
人を外見や経歴で判断するな、と俺は思う。蓄えた髭とゴリラのような顔立ち。
アンダースローの変則派投手として最優秀救援のタイトルを二回。
実績なんてのは過去の話で、大事なのは今、この場面をどう抑えるかだ。
汗は止まらない。ロジンバッグを手に取り指先に馴染ませる。
「ここで打たれたら、文字通り炎上だな」
見えない恐怖が背後に忍び寄る。
ドーム内は割れんばかりの歓声で、盛り上がりは最高潮に達していた。
『さあここで一旦CMです。日本対キューバ。九回裏の現在5対3。日本、リードしていますがワンアウトランナー一、三塁。マウンド上には日本が誇るストッパー浦辺』
バッティングピッチャーの仕事は難しい。バッターに対して、ちょうど良い加減で打ち頃の球を投げなくてはいけないからだ。
下手投げの投手は球界を探しても珍しいので、二軍調整中の俺は打撃投手を買って出ることもあった。年長者として、チームのために、という建前でしがみついている自分が惨めだった。
緩く抜いた球を気持ちよくバッターが打ち返す。黙々と捕手のミットを目掛けて投げる。
『スパァァンッ』
ミットの音が場内に響く。
「なあにやってんすか。アンタにこの場所は似合いませんよ」
浦辺さん、と声をかけてきたのはレギュラー捕手の山里だった。オレンジ色の髪に日焼けした甘いマスクで飄々としている。
「おまえどうした。今夜試合だろ」
一軍選手が二軍の練習に来ることは稀だ。もしかしてケガか。山里は俺の気持ちを察したか、
「ケガなわけないでしょ。オレ無敵ですよ、どうですかこのアイアンボディ」と二の腕を捲って力こぶを作った。
二軍暮らしを笑いにきたか、と俺は言う。
「いえまさか、今日はこの方と浦辺さんに会いに来ました」
山里の後ろに立っていた人を見て、俺は目を丸くした。
「調子はどうだ、浦辺くん」
現役の頃と変わらない精悍な顔立ちで、スマートにスーツを着こなした神宮寺監督が俺を観ていた。日本代表の監督がどうして。
「夏の国際大会の選考ですよ。オレは浦辺さん推してますんで」
「山里おまえ冗談もほどほどに」
神宮寺監督が間に入って来る。
「現段階のキミの仕上がりが見たい。練習中に申し訳ないけどいいかな」
どうやら本気らしい、俺は渋々了承する。見てもらったほうが早い、今の 俺には日本代表はおろか、一軍に戻る事すら難しいのだから。
「じゃあ決まりですね」
山里は二軍捕手を呼びマスクを被らせ、自身は捕手の後ろに立つ。
「球種はオレが指定します」山里が言う。
俺は頷き、肩を作っていく。しばらくすると神宮寺監督がヘルメットを着けて右打席に立った。
「まずはストレート」
下手投げから直球を放る。監督はゆっくりと球筋を追いながら見逃した。
「OK。じゃあシンカーいきましょう」
握りを変えて、もう一度放る。球は先ほどと同じ軌道から打者の手前でギュッと曲がって落ちた。タイミングを合わせ、打ちに来ていた監督のバットが空を切る。
「もう一度、シンカーお願いします」
指のかかり具合は悪くなかった、同じようにもう一度投げる。
『カキィィンッ』監督は肘を畳みシンカーをすくい上げた。三塁側へ大きなファウルフライが飛ぶ。
「今日はわざわざありがとうございました」
監督に頭を下げる。
「また後日な」そう言って監督は去っていった。
「キレ、落ち具合、そして何より、ストレートと同じリリースで投げられる浦辺投手のシンカーは、まさに魔球と呼ぶにふさわしい」
まだ用があるのか山里は帰らない。
「解説者のコメントまでよく覚えているな」
「懐かしいですか」
二年前の日本シリーズ、日本一の瞬間マウンド上にいたのは俺だった。ウイニングショットはシンカー、空振りの三振。バッテリーを組んだ山里は泣きながら俺に抱き着いてきた。
その年、驚異の奪三振率を誇ったこともあり、シンカーは魔球と呼ばれた。
「二年前の話だ」
上手く行き過ぎだった。翌年大きく調子を落とした。打ち込まれることが続き、夏前に二軍へ落とされ、チームが優勝し連覇を果たしたのを俺は自宅のテレビで観ていた。
年齢が三十代後半に差し掛かった事、勤続疲労、打者の研究、シンカーのキレが衰えたなど、色んな事が囁かれた。
恐らくその全てだと思う。そうでもしないと小心者の俺にはやり切れなかった。妻には、この辺が潮時かもなと漏らした。
「初めて日本一になった時、オレはこの瞬間が永遠に続いてほしいと思いました。野球選手を目指したガキの頃のオレに、おまえ間違えてねえよ。最高だよ。そう言ってあげたかったんです」
山里は明後日の方向を見て続ける。
「あの景色、オレは浦辺さんのおかげで見ることが出来ました」
「だからまだ、終わらせませんよ」
『2020年夏、国際大会決勝。日本対キューバ。九回裏、あと二人。ですが、ランナーは一、三塁。ピンチの場面で、打席には四番主砲のマルティネス。一発逆転サヨナラもある場面。どう抑えるか、マウンドには抑えの浦辺』
「国際大会は一発勝負です。浦辺さんのシンカーは初見では打てません。大丈夫です」
左打者のマルティネス、山里は内角膝元にミットを構えた。
初球はシンカー、打者に向かったボールは手前でギュンッと曲がった。
『マルティネス、仰け反ったァ。しかし内角いっぱいストライィィク』
山里は、外角いっぱいへ構えた。相手に考える間を出来るだけ与えない。テンポよく二球目を投げる。
『外角、ストレート。マルティネス、一歩踏み込んだ。打ったァッ、打球が飛ぶ、レフト方向ォオ』
「不調の原因は、ストレートにあります」
「シンカーは直球との緩急差があってこその魔球でした」
俺が調子を崩したのはストレートの伸びがなくなった事が原因だと、山里は分析した。
それから夏までの間、とにかく直球の伸びや球速を取り戻すことに専念した。
しかし──
『レフト、下がる下がる、フェンスいっぱい、どうだどうだ』
全盛期の球速は戻らなかった。
『捕ったァ、しかし犠牲フライとしては充分な距離。三塁ランナー悠々とホームへ。一点差、最終回の局面、キューバが一点差まで迫りますっ』
山里がこちらへ駆けてくる。
「あれはスタンド入ったかと思いましたね」
このピンチでも軽口が言えるコイツが羨ましい。
「あとひとり、行くか」
「打たれても抑えても、明日の一面は浦辺さんすね。最高じゃないすか」
オマエもな、と言いたかった。
「オレは浦辺さん信じてるんで、浦辺さんは──」
「浦辺さん信じてるオレを、とにかく信じてみてください」
さあー、楽しみましょう! 山里はナインの守備位置を細かく指示していく。
『打席には五番ファースト、ラミレス』
一球目。高めに大きく外したストレート。その間に、一塁ランナーは二塁へ。
続いて二球目は真ん中にシンカー、バッター強振。空振りィィ。
鋭いスイングに場内のヒリつく空気。ワンボールワンストライク。
三球目は。山里のサインはそれまでとは、違った。
「もっと遅いボールを投げる、ってのはどうですかね」
大会を間近に控えたブルペンで山里が言う。シンカーの精度には自信を持てたが、直球は全盛期の八割ほどの仕上がりだった。
『野獣、浦辺。サプライズ選出。全日本野球代表の最後の一枠へ』
国際大会がモチベーションとなり、夏に近づくにつれ調子と成績が上がった。六月に一軍へ呼ばれ試合勘も戻ってきた。
だけどやはり決め手に欠ける。世界は甘くない、簡単には通用しないだろう。
「二軍にいたとき投げていたあの緩いボール、あれ使えませんかね。タイミングを後ろに外せば、シンカーが効きますよ」
イメージは共有できた、しかしそれには一つ問題があった。山里も困った表情になった。
「そう、投げられて一度。上手く使わないと百パー打たれます。土壇場で投げる勇気があるかどうかですね」
「山里、ピッチャーに必要なのは勇気じゃない、覚悟なんだよ」
そしてその覚悟は、決勝のマウンドの最後にきて試される。
三球目、ここで行くか。
ストレート、シンカーと続いた配球。投げるならここです。
三球目──
開き直って投じたボールは緩いチェンジアップだった。
その一球は、スローモーションのようにゆっくりと、山里のミットへ吸い込まれていった。
完全にタイミングを崩されたラミレスは、打ち頃のそれを見逃すことしか出来なかった。
『み、見逃しィィー、ストライクツーッッ』
身体中の細胞が沸き立つ。
これからの人生、もう最高の瞬間は訪れないかもしれない。
泥水を啜る日々に何千回、何万回投げただろう。孤独なマウンドで、ミットの音だけが俺の気持ちに応えてくれた。
その音が聴きたくて、もう一球投げる。
シンカーはバットから逃げるように、大きく曲がってストンと落ちた。
『スパァァッッンッ』
雷鳴のような歓声が響く中、山里が泣きながらマウンドへ駆けてくる。
「良い音鳴らしてんじゃねえよ」
「信じてましたよー浦辺さん」
山里は泣きじゃくり鼻をすする。
「で、どうすか。浦辺さん、今最高ですか」
「観衆がうるさくて何言ってるか聞こえねえよ」
溢れる涙で目の前の景色が歪む。
「あれ、アンタ泣いてんすか」
「おい山里、俺たち明日の一面なんだから」
選手が次々に走ってきて揉みくちゃにされる。
「どうせなら、笑っとけよ」
痺れるほどの現実を分かち合う。
これを、最高と呼ぶのかもな。
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